自分が笑う時

文學界2022年1月号の平野啓一郎さんのエッセイ『予期せぬことがなくなって』を読んだ。

エッセイにはゲーテの『親和力』(柴田翔訳)を引用している部分がある。

「人間がその性格を際立って示すのは、何にもまして、彼が何をもって笑うべきことと見なすかひよってである。」
「笑うべきという感じは、習俗上掛け離れた二つのものが、感性の前で ー 但し無害なやり方で ー ひとつに結び合わされた時、そこに生ずる。
感性的な人間は、笑うべきことが何もない場合でも、よく笑う。彼に活気を与えているものが何であれ、彼内部の快感が表に出るのである。
才人は殆ど万事を笑うべきことと見なし、賢者は殆ど何事をもそうとは見ない。」

文學界2022年1月号 『予期せぬことがなくなって』より引用

何に対して笑うかで性格が分かるという視点は新鮮でした。

これを読んだ時に自分はいつ笑うのだろうか?と考えてみた。私には下らないことを言ったり、事ある毎にダジャレを言ってくる人が周りにいる。大抵はどちらも白けるのだが、日常的にはそういう時に笑っている。

下らないことを言う人には、「adjmtだけは笑ってくれる。優しい」なんて言われたことを思い出した。優しい、と声をかけるということは本人も白けるのを承知で言ってるのだと思う。多分、私もそんなことを見かねて笑っている。自分で書くのもなんだが、善意の笑いをしている。白けるのがその場の空気なら、私は敢えて大多数(他の友達)の立場に立つのではなく、場を動かそうとした人の肩を持つために笑うのではないか。ある意味、逆張りのポジションを取るための笑いとも言える。

では、事ある毎にダジャレを言ってくる人には私はどう思われているか。ここでも、初めのうちは下らないことを言う人と同じで笑ったり、何か意見を言ったりする。あくまでも相手を労った笑いなのだと思う。そして、相手もしつこいけど止めないのは私がある程度受け止めてくれると思っているからだと思う(そういう私もたまにダジャレをかますのでコミュニケーションの一種だと思われてる節もある。)。度を過ぎるとスルーしたりもする。流石にめんどくさい。そうすると、「あ、スルーされた」と言われる。このスルーは笑うのと対極であり、拒絶のサインと取られる。前までは笑っていたのに急にスルーされるのだから、ただの拒絶よりも1.5倍増しの拒絶になるのではないだろか(自分もダジャレをかましているのでそうでもないかも。ちょっとしたツンデレにも見えるかもしれない)。

この場合は、お互いにダジャレをかましあっているので、ただの傷のなめ合いにも見える。
(私のダジャレは大抵「何言ってるの、ヤバい」で終わってしまう)

この2つをまとめると要は、愛想笑いをしているだけである。長々書いたが、実に下らない。そして、ちょっと真面目に語っている風な文章を書いていることを自覚すると苦笑いする。これがゲーテの言う、『習俗上掛け離れた二つのものが、感性の前で ー 但し無害なやり方で ー ひとつに結び合わされた時、そこに生ずる。』という部分に相当するのではないかと思う。

ここまで書いてきて、表面的に相手の肩を持っているように見えるが、内面ではどちら(笑われる側と笑う側)にも嫌われたなくない中間の位置に立とうとしているのではないか?と思う。

笑うことから自分で性格分析をすると、八方美人なのだろう。それなりに芯を持っていると思ったが、いざという時は波風を立てない人間なのかなと。(波風を立てないつもりだったが、思いっきり向かい風になることも多い。)

今日はこの辺で。

では。



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