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株式会社SimpleのMissionに込めた想い
株式会社Simpleの渡辺です。
2024年7月1日に株式会社Simpleを創業しました。創業時に書いたnoteが下記になります。
株式会社Simpleはミッションを主軸に置いて創業をしました。今回は創業時に書いたnoteに続けて、Simpleのミッションに込めた想いについて書いていきたいと思います。
Missionに込めた想い
まず、株式会社Simpleのミッションは以下になります。
世の中の選択肢を増やし、誠実に価値を提供することで社会に貢献する
このミッションは、会社としての存在意義であり、私自身の人生を通じて追い求め続けたいテーマでもあります。つまり、過去の経験を踏まえ、私自身が未来に向けてエネルギーを持ち続けられるテーマです。ミッションに込めた想いを理解していただくために、私のこれまでの半生・経験について簡単にお話ししたいと思います。
幼少期
私は1991年5月、茨城県石岡市(旧:八郷町)に生まれ育ちました。
石岡市は人口10万人弱、県庁所在地である水戸市と中核都市の土浦市のちょうど中間にある小さな田舎町です。
当時の家の周りも田んぼと畑に囲まれており、兼業農家の家庭で初孫・長男として、非常に愛情深く育てられました。家族は父方の祖父母と一緒に暮らしており、近所の人々とも自由に行き来できる環境で5歳頃には一人で外で遊び、近所の家に上がり込んだりして、のびのびと過ごしていました。今の東京の環境からしたら考えられませんね。
「僕の夏休み」をプレイしたことがある方は、まさにそのような生活をイメージしていただけるとわかりやすいと思います。
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小学校〜高校生
今振り返っても非常に良い幼少期だったと感じますが、実際には狭い田舎の環境や、長男として家を継ぐ(というようなプレッシャー)を父方の祖父母から感じていました。そのため、早くこの環境を出たい、大人になってお金を稼ぎ、自由になりたいと、小学校に入る前から思うようになりました。
田舎では情報が限られていましたが、その当時の情報源はテレビでした。関東圏だったためテレビで巨人戦が放映されており、プロ野球に興味を持つようになりました。プロ野球選手名鑑を買ってもらい、打率やホームラン数などの結果だけでなく、選手の年俸まで細かく覚えていました。(この頃から数字には強かったかもしれません)
「プロ野球選手になれば東京にいける」
「プロ野球選手になれば多くのお金をもらえる」
このような想いを持ち、また同時期に茨城県の高校が春の甲子園で準優勝するのをみて、「この高校に進学して甲子園にいき、プロ野球選手になる」というのが7歳だった僕の将来の夢になりました。(この時の高校には進学するのですがプロ野球選手にはなれていません。)
これが僕自身が初めて選択肢を広げようと思った出来事かもしれません。
実際にはプロ野球選手を目指したものの、親の意向や喘息で体が弱かったこともあり、地元のスポーツ少年団などの野球クラブには入ることができませんでした。そのため、自宅で素振りや壁当てをし、一人で練習を続けていました。小学校高学年の時には、両親が離婚し、母方の祖父母の家に引っ越すこととなりました。茨城県内の同様の田舎町でしたが、意図せず新たな環境で選択肢が広がった出来事だったと思います。
その後、中学校ではようやく野球部に入ることができ、目標はブレていなかったので誰よりも自主練習をしていました。強いチームではなかったので大した結果は残せませんでしたが、目標の高校の進学だけは叶えることができました。学区外の高校だったので地元から進学する人はほぼいませんでしたが、小さな町から県庁所在地である水戸の高校に進学できたことで、少しだけ選択肢が広がった出来事だと感じます。
高校では念願の野球部に入り、ここでようやく外の世界と自分の実力の無さを知りプロ野球選手を諦めることができました。甲子園という目標は消えていなかったので、自主練習の量は誰よりもやり切り、何とかレギュラーとして試合に出られるレベルにはなりました。自分の運動神経の悪さを考えるとこれは奇跡的な話ですが、やり切った良い経験だったので野球に未練は残りませんでした。
部活を引退してからは、就職するか進学するかの選択がありましたが、家系に大卒者がいないことと母子家庭だったこともあり、当初は就職が既定路線でした。しかし、「大学に行った方が将来的に家族にも恩返しができるのでは?」と考え、進学することにしました。今思うと、この選択は本当に良かったと感じています。
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大学生〜社会人
進学にあたっては奨学金と生活費はアルバイトで何とかするからという約束のもと、東京の私立大学に進学しました。
実は、大学進学の動機の一つが「テレビ局に就職したい(給料が高い職種)」というものでしたが、大学生活を送る中で、テレビ局に限らず多くの職業や仕事があることを知り、お金を稼ぐだけなら他にも多くの選択肢があることに気づきました。大学生活の中で、選択肢が一気に広がったと感じます。
その後も様々な経験を経て、大学2年生の時に「将来は経営者になる」という目標を立てることができ、そこから行動が大きく変わりました。大学生の時はインターンや起業家が話すセミナーなどに足を運んで、その時の経験が今につながっていると感じています。
また、この時期に読んで今でも色こく影響を受けている本として「渋谷ではたらく社長の告白」があります。この本の影響(週110時間はたらく)を受けてその後のキャリアの選択をしていますが、過去の自分の行動を振り返っても、才能も実力もないことから、徹底して量でカバーするという行動特性にも合致していたのだと思います。
社会人になってからの話は割愛しますが、様々な経験を通じて、選択肢が広がったと感じています。
まとめ
自身の半生の一部について長々と書いてきましたが、苦労した経験も含めて今の自分があると感じています。そして、これまでの経験を通じて、様々な人との縁や運によって「選択肢が広がった」ということが一貫して言えると感じています。
これらの経験を通じて、私は「世の中の選択肢を広げる」ことを成し遂げていきたいと本気で思うようになりました。私自身もまだまだできること・選択肢を広げていきたいですし、家族や仲間、お客様やその先の社会の選択肢を広げることが、私自身が会社を通して、ミッションとして追い続けたいテーマです
ちなみに会社としてもミッションに紐づけた形で事業も展開していきたいと思っており、地方や子どもに関わる事業にもいずれ携わりたいと考えています。(いつになるかはわからないですが、定款にも含めています)
「ミッションに込めた想い」としながら、前半の「世の中の選択肢を広げる」しか触れられていませんが、後半部分(誠実に価値を提供し社会に貢献する)については、また別の機会で触れていきたいと思います。
終わりに
今回は会社のミッションに込めた想いについて、過去の半生を振り返りながら書かせていただきました。
会社としてもできること(選択肢)を増やしていくたには仲間が必要です。ミッションに共感し、興味を持ってくれた方はお話できると嬉しいです!下記からお気軽にコンタクトをしてください!
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