「なんでできないの!」は呪いの言葉
私は、昔からあたりまえのことが、上手にできませんでした。
たとえば、食べ終わったお弁当箱を洗い物に出したり、提出物を親に渡したり、レッスンに集中したり…
そんなとき「なんで貴女はみんなができることができないの!?」とよく母に言われました。
母は自分より他人を優先するような本当に優しい人でした。すぐに怒るような人ではありませんでした。
だからこそ、私はそう言われるたびに、できない自分を責めて、なぜできないのか考え込んだりしていました。
でも、どんなに考えても【何故出来ないのか】がわかりませんでした。自分なりに工夫をしてみても、結局改善はできず母を怒らせてしまう毎日。
大好きな母の自慢の娘でいたいのに
大好きな母の優しい顔がみたいのに
どうして私はこんなにだめなんだろう…
結局【できない自分は努力不足だ】という自己嫌悪と【母を悲しませてしまうふがいなさ】でいつも悲しみでいっぱいでした。同時に、大好きな母にだけはいつでも味方でいてほしいという気持ちもありました。
子供の私にとって、本当に辛い時間でした。
いつしか私は自分で自分に「ダメな人間」のレッテルを貼ってしまうようになりました。
最近よく聞く言葉でいうと自己肯定感が低い人間の完成です。
「なんでできないの!?」と言いたくなる母の気持ちは、大人になってやっと理解できるようになりました。母にだって日々の生活や仕事がある中で、毎回毎回同じことを注意しなければならないのは、相当なストレスだったと思います。
成人した頃、とあるテレビCMをきっかけに、母に「私のことを怒ったあとって悲しかったりした?」と聞いたことがあります。母は「そりゃもちろん悲しかったよ。言いすぎたって悩んだこともたくさんあるよ。」と言っていました。母にもたくさんの葛藤があったんだと思います。
それを聞いて少し心は軽くなったし、母だけを責めるつもりはありません。だけど、子供の頃に感じたことが消えるわけではありません。
ADHDにとって「なんでできないの」は呪いの言葉です。
なんでできないのかは、本人たちもよくわからないんです。
考えても考えてもわからないし、わからないから改善もできず、できない自分を責めてしまいます。
そうやって自分を責め続けて出来た人格はなかなか変わらないし、受けた傷はきっと一生消えません。
いつも心の何処かで【自分はだめな人間だ】と思い続けています。
私だって当たり前のことを当たり前にできるようになりたい。
もし、身近な人にADHDの人がいたら「なんでできないの!」とは言わないでくれたら嬉しいです。ADHDの症状が他人に迷惑をかけていることは、当事者は十分に理解しています。みんなのようにうまくできないことをとても辛く思っています。
お子さんが発達障害の場合は特に、言わないであげてほしいです。子供にとってそれは生き地獄の始まりでしかないです。厚かましいお願いで本当に本当に申し訳ないですが、どうかお願いします。
現在、わたしはADHDだとわかっているから「ADHDなんだからしょうがない」と思うことは増えましたし、子供の頃に比べればずいぶんと前向きになりました。それでも「なんでできないんだろうなあ…」と落ち込むこともたくさんあります。
せっかくの人生、落ち込んで、うじうじしてばかりじゃ嫌だから明るく前向きに努めたい。楽しく生きて楽しく死にたい。きっと死ぬまでトライアンドエラーだけど、そのこと自体を受け入れなきゃな〜と思っています。
まだまだ自分自身を受け入れ切れてないのが悲しいところですが…。
できるだけ自分を受け入れて、これからもADHDとうまく付き合っていけたらなと思います。
あーーーーーもうADHDって厄介だなあ!(笑)