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大躁転までの暖かい生活
タイトルからは想像できないかもしれませんが、夫(以下、モトット)が大躁転するまでは、私たちの生活は結構幸せでした。少なくとも、私は十分すぎるくらい幸せを感じていました。
ちょっと、大躁転する前の私たちの人生に触れたいと思います。ざっくり人間関係が知りたい方は下の記事へ。
出会いから付き合うまで
私たちが出会ったのは2016年、デザインの勉強会の場でした。会場に入って最初に名刺を交換した相手がモトット。初日はほとんど話さず名刺交換だけで終わりましたが、次の日、突然モトットからTwitterでメッセージが。「僕、あなたの作品知っています! あのやよいさんだったんですね!」という嬉しい内容でした。
そこから連絡を取り合うようになり、業界の先輩後輩として仲良くしていました。やがて一緒にご飯に行くようになり、彼が私の家に遊びに来るようになり、家で鍋をつつくうちに、気づけば自然とお付き合いするようになったのです。
ただ、驚いたのは、モトットが私より14歳も年下だったこと。私はてっきり30代だと思っていたのですが、実際は20代。人生のステージが違うことを理由に何度か別れを提案したのですが、彼は「その違いを言葉を尽くして埋めていきたい」と言ってくれました。その言葉通りに進んで、2019年には結婚。私は再婚でしたが、彼と一緒にいる「面白さ」に惹かれていました。14歳差の不安より、先が見えないというワクワク感の方が勝っていたんです。
プロポーズの言葉から感じた“計画性のなさ”
モトットのプロポーズの言葉は、ある意味で衝撃的でした。
「やよいさん。僕、たぶんADHDなんです。そして、僕の夢は“何者か”になること。あと、M大学(海外の大学)に行きたいと思っています。こんな僕でよければ、一緒に海外についてきてくれませんか?」
唐突すぎて、私はちょっと笑ってしまいました。そして返事はこう。
「えっと…まず私が君の留学についていったら、労働ビザが取れないから君が私を養わないとダメになるけど、それ大丈夫?」 「……それは……」 「あと、その大学の学費知ってる?」 「知らない」 「500万円くらいだよ。文化庁の派遣なら200万円助成されるけど、それでも300万円と生活費は必要。それ、どうするの?親御さんに頼る?」 「どちらも無理……」
この会話を経て、私は提案しました。
「じゃあ、まず日本で大学院に行って、研究を経験してみるのはどう?君って、一気に色々始めるとストレスを感じやすいでしょ。いきなり海外生活と研究を両立するのは難しいんじゃない?まず研究に慣れてから考えよう!」
こうしてプロポーズも一旦丸く収まり、私たちは結婚することに。義両親も賛成してくれ、名字も彼が私に合わせてくれるなど、全てにおいて譲歩してくれた結婚でした。義実家は「好きにすればいい」というスタンスでとても寛容。夫の育った環境の自由さを感じましたが、一方で彼の「常識的な道理が通じない」一面も、少しずつ見え始めてきました。
「ありがとう」が飛び交う生活
彼は「言葉を尽くす」という言葉通り、何事も話し合いで決める人でした。前夫が「察してほしい系男子」だったため、私は結婚生活で自分の存在意義を見失っていました。でも、モトットとの日々で元気を取り戻しました。
彼は毎日、何かにつけて「ありがとう」を言う人。私もその影響で感謝を丁寧に伝えるようになり、私たちの家には暖かい空気が溢れていました。「白髪が増えたな」とぼやくと「やよいさんなら銀髪でも絶対カッコいい」とさらっと返してくれるような、そんな人です。
ただ、ADHDと言った通り、電気の消し忘れや遅刻の多さには少しイライラしていました。家中のほとんどの電球を人感センサー付きにしても、そうでない場所は消し忘れてしまい、「電気ついてたよ」と声をかけると「気づいた人が消せばいいじゃん!」と激昂することもありました。
大躁転後の検査によって発達障害は否定されましたが、彼との生活にはたくさんの小さな困難がありました。それでも、「ありがとう」が飛び交う暖かな日々に救われていたのです。