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女性の正体
モトットと連絡を取り合う女性の正体に迫るうち、私たちはモトットを囲む支援の輪を知ることになります。家族だけでモトットの病気と戦っていると思っていた私たちに、希望をもたらせてくれる発見でした。
録音の内容
義母がホテルで録音した音声には、こんな言葉が残されていました。
「やよいさんは僕よりも早く年をとる。すぐ認知症になる。だから今のうちに別れるんや。そんなん面倒みれへん。」
録音を聞き終え、申し訳なさそうな顔をする義母の前で、私は静かに問いかけました。
「躁転すると、まともな判断ができるようになるんですかね?」
無表情でそう言う私を見て、義母はただ呆然としていました。
「約束された未来が壊された」「裏切られた」——そんな感情を抱くことは、14歳年下のモトットと結婚した時点で、とうに捨てていました。むしろ、先の見えない未来の面白さに惹かれて、私は彼と人生を共にすると決めたのです。だから、こんな言葉を投げかけられる日が来ることも、ある程度は覚悟していました。ただ、それよりも気がかりだったのは、モトットの次の発言でした。
「地元の旅館の娘さんと前に知り合ってたんやけど、しばらくそこで住み込みでバイトさせてもらう約束してる。」
海の近い熱海で自殺の可能性を危惧していたというのに、数時間の距離にある彼の地元へ戻られてしまったら、もう手の施しようがありません。通院も最低でも月に一度は必要ですし、何より服薬を続けなければなりません。それなしでは、どうにもならないのです。
怪しい事業者とつながる
モトットから、また新しい事業の話が飛び出しました。
「最近、韓国に事業を輸出している人とつながってね。だから、今度韓国に行くことになった。」
次から次へと湧き出る計画。どうやら彼は、ビジネス懇親会なるものに積極的に参加しているらしいのです。次から次へとまるでモグラ叩きのように対応を迫られます。
そんな中、おっちょこちょいのモトットは、その人物とのLINEのやりとりのスクリーンショットを私に送ってきました。そこには、相手の名前がはっきりと記されていました。
双極性障害の患者は、躁転時に強い起業意欲を持つことがあります。しかし、それと同時に、そうした心理状態につけ込まれ、詐欺の被害に遭うことも少なくないようです。
障害者の実態に詳しい川尻さんも言っていました。
「精神疾患のある人って、犯罪を起こしやすいと思われがちだけど、実際には逆。どちらかというと、騙されたり巻き込まれたりすることの方が多いのよ。」
この韓国の相手が詐欺師かどうかは分かりません。ただ、一つ確かなのは、モトットの渡航は絶対に止めなければならないということ。
私はすでに、彼に仕事を依頼してくれている共通の知人たちに、「今はモトットに仕事の話を持ちかけないでほしい」とお願いをしていました。
女性の影
もう1つの気掛かり。深夜にface timeをやっている女性についてリサーチをします。メールアドレスを検索しても、有力な情報は出てきません。
「ん?お義母さん、その地元の旅館の女性なんていう名前か言ってませんでした?」
「え?確かマミさんって言ってたわ。」
ビンゴでした。メールアドレスには名前が使われており、そこにmamiと書かれています。
地元の有名な旅館なので、その旅館を聞いて、代表取締役の苗字を確認。合わせると名前がわかりました。早速facebookで検索するとでてきました。同じ業界の某大学の大学院生でした。彼女が海外に留学中であることもわかりました。
「深夜帯に電話してるのは、時差の問題か...」
もしかしたら、今のモトットを生かしているのは彼女の存在なのかもなと、ふとそんな考えが頭をよぎります。そう思うと、彼女との関係に横槍を入れていいのかと、少し悩みます。しかし、彼女と出会ったのは早くても軽躁になった10月以降なはずです。モトットが本来はこんな性格ではなく、そして今はとても危険な状態であると把握している可能性は低く、とにかく遠くに連れて行かれるのだけはなんとか止めねばなりません。私は自分の女性としての感傷にそっと蓋をし、動き始めることにしました。
私の知人に、彼女が通う大学の同じ分野の准教授をやっている人がいるので、その方になんとか彼女と連絡をとれるように仲介をお願いすることにしました。
「実はモトットが精神を病んでいまして、とても危険な状態なのですが、マミさんの実家の旅館に住み込みで働くと言っていまして...どうにか都心に止めて、何かあったら駆けつけられる距離においておきたいんです。彼女に連絡したいのですが、お願いできませんか?」
「事情はわかりました。すぐ連絡とってみます」
韓国行きを止める
韓国行き自体は、モトットの書斎の引き出しにパスポートを残したままだったので、それを阻止するのは簡単でした。
しかし、事業の話なので契約後、韓国行きを強制的に止めれば、契約不履行などで訴えられる可能性もあるわけです。なので、私たちはモトットが契約をする前に止めねばなりません。しかし、モトットは説得に応じられる状態ではありません。私たちは、先方を止めるしか方法がないのです。
モトットが送ってくれたLINEから、その事業者の会社のHP、経歴などを発見しました。
「義母さん!この人に会いに行きましょう!話して理解してもらえそうであれば話して、事業を止めてもらいましょう」
私たちは、すぐさま渋谷駅に向かいます。渋谷駅銀座線。鯨の骨の中のようなホームで銀座線に乗り込もうとしたその時、私の電話が鳴りました。周囲が騒がしく、電話の声を聞きとるのに苦労します。
「やよいさん?早速彼女に連絡して、連絡がつきました。彼女も、そろそろ家族の方に連絡をとろうと思っていたみたいです。」
「はい!ええ!?」
「モトットくんの参加する勉強会グループありますよね?あそこの子たちがみんな、モトットくんがおかしいのを理解してみんなで見守っていたらしいです。」
「えええ!!」
驚くと同時に胸が熱くなるのがわかりました。