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大切な我が子の異変に気づいてあげて #2

1つ前に投稿した僕が5歳の時にかかったペルテス病の続きになります。              まだ目を通してない方はそしちらから読んでいただくと幸いです。


横浜こども医療センターでの生活が始まった。

入院はずっと病院にいないといけないと思ってた僕は、先生に「外出できない訳ではありません」と言われた時はホッとした。            皆さんが学校や会社に行くように、平日は病院、土日は(休み)家に帰ることが出来たのです。

その後に外転歩行装具(あしを開いた位置で保持しながら歩行する装具)に変更しています。

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入院してからはすぐ、装具治療に入り足に体重をかけてはいけないので車椅子。          車椅子に乗っていても足が自由に動かすことができてしまうので、自分にあった形の装具を作る所から始まりました。                装具は、足を開いた状態(股関節移転位)に装具を装着し、障害を受けた骨頭を臼蓋の中に包み込ませる 方法で股関節から足首まで固定される形なので常に両足が開いている状態でした。          装具も付けているので足が重たく時にはバランスを崩して車椅子で転倒してしまったこともありました。                     まるで虫が仰向けになったみたいに起き上がれずバタバタ暴れていました。笑


ここからは病院での生活や過ごし方どうだったのか話します。                  当センターには、医療センター内に設置された県立の病弱特別支援学校があり、こども医療センターの肢体不自由児施設に入所、または内科系・外科系・こころの医療部門に入院の小中学生、重症心身障害児施設に入所の小中学生と高等部の生徒が通うことが出来ます。                 入院してるから学校にいけない。授業が出来ない。などの心配がないです!            僕は5歳だったので施設内の幼稚園に入園しました。同じ病気の友達など色んな子がいたのを覚えています。                     みんなで絵を書いたり歌を歌ったり、発表会もありました!           

自分の足はなかなか治ることなく、そのまま小学校に入学🌸                   同級生は僕含め男子3人、女子1人の計4人で、4人とも同じ病気でした。その中には一度ペルテス病が治ってまた逆足がなってしまった子もいました。 みんな同じ病気なので分かり合えることも多くたった4人だったのですぐに溶け込み、楽しい小学校のスタートでした!当施設内の学校は中学生、高校生もいたので季節ごとの行事(お花見、お祭り、餅つき など)だったり文化祭がありました。        不自由なのは身体だけで病院や学校生活は本当に楽しいと思える毎日でしっかり授業も受けていました。

土日は家に帰ることができるので、土曜日の朝に母が迎えにきて車椅子も一緒に乗せて家に帰りました。                     もちろん装具は家でも付けていなければいけない。不自由で大変なことが多かったですが病院でいつも看護師さんがしてくれていることを母に教えながら家で過ごしていました。            母は僕をずっと家に居させるのは僕の為にも良くないと言っていました。理由としては装具を付けて車椅子で外に出ることは人目も気になり嫌な思いをするかもしれないけど周りの人にも病院の事を周知させる事、突然歩けなくなり車椅子生活で引きこもりにならないようになるべく人前に出して慣れてもらう意味。                   その時の自分を受け入れてもらう為に、車椅子生活でも恥ずかしいって思わないように、沢山外にも出してバス🚌・電車🚃で車椅子でも楽しい事があるよって知って欲しい意味があったと言っていました。                     これを大人になって聞いたときにすごく感謝しました。僕の為に考えて行動してくれてたくさん経験できた。今の僕があるのも母のおかげです。


この楽しい日々でしたが小学生になる前、衝撃的な事を先生から告げられていた、、。       先生から話しがあると言われた日、僕と母は恐る恐る先生の待つ部屋へ

部屋に入るとレントゲンの写真とそれを見ながら座っている先生がいた。             先生から言われたことは、、、

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