Adan #8
僕にキスをしたのは誰なのか[3/7]
聞き違いではない。確かにヒカルさんは、さっきのキスは激しかった、と言った。
僕はヒカルさんがそう呟いたあと、みんなの顔を見た。ところが、姉も利亜夢もモラちゃんもパエリアを食べるのに夢中といった様子で、ヒカルさんのその呟きを聞き取れたのは僕だけのようだった。
僕は全身が熱くなった。シャンパンのせいでも太陽のせいでもない。ヒカルさんのその呟きは、先刻のキスの関与を示唆したものと解釈できるじゃないか!
「ムルソーじゃなくて良かった、私」とヒカルさんが眩しそうな顔でルーフバルコニーを見つめながら言った、声のボリュームを上げて。
「頼みたいことがあるんだが、ヒカル」姉が言った。「生き急いでるっていう今の彼と別れたあと、亜男の初体験の相手をしてくれないか? 無論それなりの金は払う」
僕は姉からヒカルさんに視線を移した。そしたら、ヒカルさんは僕の目を見ながらこう即答した。
「こんな私でよければ」
このとき自分がどんな顔をしていたのか、容易に想像できるが、想像したくない。ヒカルさんの彼氏が死に急いでくれるのを僕が熱望したのは言うまでもない。
そんなこんなでパエリアを食べ終え、デザートのブラウニーの感想も言い終えた頃、「能動的な我々の憎むべき暇な午後について」という議題が持ち上がった。するとそのとき、利亜夢がゲームセンターに行きたいと言い出して、姉がそれに前向きな姿勢を示したから、僕はその場を退くつもりで椅子から立ち上がった。そうしたわけは、姉に子守を押しつけられることが分かっていたからだ。
「亜男くんも一緒に行こうよ」とヒカルさんが言った。「子供たちを連れて疑似夫婦デートして、そのあと仲よく疑似夫婦喧嘩しよう」
「その夫の役柄、二分で役作りしてみせます」
僕はヒカルさんにそう言った。そして僕は、駆け足で部屋に戻った。
僕は部屋に戻った直後、我に何故二本しか腕を与えなかったのだ、って理由で神を呪った。というのも、僕は右手に持った電動歯ブラシで歯磨きを、左手に持った電気シェーバーで髭剃りをしたのである、トイレで。お尻を拭く手が絶対的に不足していたのだ。
でも、僕はめげなかった。お尻を拭う作業を放棄しなかった。諦めなかった。結果、僕は二本しかない腕で、見事にその三つのミッションを完遂した。
それから僕はヒカルさんの夫役として恥ずかしくない格好——黒のワイシャツに、黒の七分丈パンツというシックな服を着、頭をオールバックにし、気持ちを作って備瀬家の部屋に帰還した。ここまでに要した時間は、一分五十秒。
僕は約束通り二分以内に戻って来たのだが、一同揃って玄関を出たのは、それから三十分後のことである。どうしてかというと、あのブス姉の無意味な身支度が三十分もかかったのだ。しかも僕はその三十分間、ヒカルさんと話をするのも叶わなかったばかりか、顔を合わせることすらできなかった。ヒカルさんは姉によって衣装部屋に軟禁されたのだ。そんな極悪非道な姉の無意味な身支度を待っているそのあいだ僕は何をしていたのかというと、居間でチャッキーに足を噛まれながら、利亜夢とモラちゃんが手にした水鉄砲の的になるという苦役を強いられていた。
僕が備瀬家の部屋に戻って来て三十五分後、一同はようやく那覇市にあるデパートへタクシーで向かった(そのデパート内に大きなゲームセンターがあるんだ)。二台のタクシーに分乗して行った。姉とヒカルさんの二人、僕はモラちゃんと利亜夢(モラとリアムってわけか)と一緒だった。僕はヒカルさんとのデートに胸を躍らせていた。だから車内ではしゃぐ利亜夢とモラちゃんの戦闘機のような声は一切気にならなかった。いつも胸を躍らせていれば、本物の戦闘機のそれも気にならないのかもしれない。
「やんちゃで世話し甲斐のある利亜夢とモラちゃんの子守をさせてやるよ、亜男。私とヒカルは買い物してくるから」
姉がそう告げたのは、僕がクレジットカードでタクシーの乗車の支払いを済ませたときだ。姉のその声色には、気が咎めるといった色彩が皆目なかった。ちなみにヒカルさんはそのとき、姉の背後で僕に向かって敬礼ポーズをとっていた。
「転べ!」
僕はタクシーを降りるや否や、そう叫びながら全力で疾走した。何故かというと、デパートの二階にあるゲームセンターへの階段——それを駆け上がる利亜夢とモラちゃんを追いかけたんだ。いくら子供嫌いの僕でも、よそさまの子供の子守までなおざりにできない。
「亜男、財布ちょうだい」
ゲームセンターの出入り口の前で利亜夢がそう言ったとき、僕はせわしく呼吸していた。
言わずもがな、僕は自分の命を優先した。先に呼吸を整えさせてもらった。そうしてある程度呼吸が安定してきたところで、僕は利亜夢とモラちゃんに一万円ずつ渡した。流石に財布は渡さなかった。僕は金を渡してこう言った。
「このゲームセンターから一歩でも出たら、国境警備隊に射殺されるものと思え」
大きなゲームセンターだったが、出入り口は一つしか見当たらなかった。ゆえに、この出入り口付近にいれば亡命者を撃ち殺せる、と僕はそう思って、出入り口の前にあったベンチに腰かけ、子供たちの遊戯欲が満たされるのを、満たされるわけがない、という絶望感を持って待つことにした。と同時に、僕は買い物を終えたヒカルさんとデートできるかもしれないという希望もまだしっかり握りしめていた。
僕はそれから二時間くらい、ゲームセンターの出入り口の前にいた。僕がその二時間何をしていたのかというと、ずっとスマートフォンでオンラインカジノをしていた。勿論、ゲームセンターの出入り口のチェックは怠らなかった(勿論ですとも!)。なお、僕はその二時間、頭の奥の物置に押し込んだキスの問題には触れなかった。ゲームセンターから漏れてくる音がやかましくて、そのような大問題と闘える状況ではなかったのだ。
「子守をほっぽり出してオンラインカジノとはな。男らしいとこあるじゃねえか、亜男。我那覇真子《がなはまさこ》と同等か、それ以上に男らしい」
姉にそう言われたのは、クラップスに精神をスクラップにされていたときだ。顔を上げると、姉は僕の傍らに立っていた。その姉は自身の巨顔に、不愉快という文字をこれまた大きく書いていた。
ショッピングバッグを持った姉の背後には、同じくショッピングバッグを持ったヒカルさん、そして、利亜夢とモラちゃんも立っていた。利亜夢はその風貌がまるで天使のようなフェネックの体長くらいあるバットマンのジョーカー(ヒース・レジャーだ)の首振り人形《バブルヘッド》を抱えていた。その人形がゲームの景品だったことと、ゲームセンターの出入り口が一つじゃなかったことは、無論あとになって気づいたことだ。
「それに亜男、お前この子たちに一万円ずつ渡したって? 大したもんだ。ママの悪いところまでしっかり継承するなんて」と姉が言った。
僕も不愉快という文字を自身の大きな顔に書いた。金をせびり取られて皮肉を言われる筋合いはないし、子守をほっぽり出したのは姉の方だし、おまけに、利亜夢が左の口角を上げて僕を見ていたし。
「亜男くん、君はもぎたての果実ではなく、もぎ取られたての枝の方だったんだね。残念」とヒカルさんが無表情で言った。
僕は顔に書いた不愉快という文字を慌てて消した。そして、誤解という文字を顔に書いてヒカルさんに見せた。でも、ヒカルさんはその文字を読み取れなかったみたいだ。筆跡に問題があったのかも。
その数分後、ヒカルさんとモラちゃんとは、そのデパートのタクシー乗り場で別れた。タクシーに乗ったヒカルさんに僕は手を振り続けたけど、ヒカルさんは僕を一切見てくれなかった。不本意ながら擬似夫婦喧嘩みたいなことはできたわけだ。
僕は姉と利亜夢と三人でタクシーに乗った。怒りが込み上げてきたのはそのときだ。僕はタクシーに乗ってから気づいたんだ。ヒカルさんに嫌われたのは全部、利亜夢のせいだってことに。だから僕は利亜夢がその行動をとったとき、野蛮にも大声で彼を叱ったんだ。
利亜夢が何をしていたのかというと、彼はヒース・レジャーのその落ち着きのない頭を、昼間にエビの頭をそうしたようにもぎ取りにかかっていたのである。しかし、だ。僕は利亜夢にしてやられた。僕の説教を遮って、利亜夢はこんなことを言い返しやがったんだ。
「ジョーカーは人殺しの悪い奴なのに、どうしていじめちゃいけないの?」
利亜夢のその発言を聞いて、姉とタクシードライバーのおじさんが声に出して笑った。
情けないことに、僕は利亜夢に一本取られてすっかり黙り込んでしまった。そんな僕を見て、姉が追い撃ちをかけるように言った。
「利亜夢にも分かる言葉で理由を教えてあげてくれ、亜男。なぜ人殺しのジョーカーをいじめてはいけないのか、その理由を」
姉のその発言を無視して、僕はタクシードライバーのおじさんに足元のブレーキと口元のブレーキをかけるように言った。するとおじさんは、すぐさま相棒を路肩に寄せた(口元のブレーキはかけなかったが)。
僕はタクシーを降りた。
ゆっくりと歩いて遠ざかっていく僕の背中を、姉と利亜夢とタクシードライバーのおじさんが見ているだろうと思った。だから僕は電子葉巻を吸ってその煙を吐き切ったあと、背中に大きくこんな文字を書いた。
不愉快、と。
つづく