表紙_渚のアストロロジー

Adan #17

渚のアストロロジー[5/7]

 ゾンビとなった僕は二日酔いの頭痛という古代から酒飲みを起こしてきたトラディショナルな目覚まし時計に叩き起こされた。

 ゾンビの僕が命懸けで上半身を起こすと、いや、ゾンビなのに命懸けとはおかしな話で、ゾンビが二日酔いで目覚めるというのもそもそもおかしなことなんだかどうだかもよく分からないんだが、まあとにかく、必死に精一杯の力を振り絞って上半身を起こすと、そこは誰もいない、いつもの綺麗な僕の家の居間だった。

 上体を起こしてから、僕は右手に無理やり握らされたそれに気がついた。手鏡だ。その手鏡を僕に握らせた悪党は、ゾンビになった僕にゾンビであることをすぐ自覚させたかったようで、僕が右手からそれを放さないようガムテープでぐるぐる巻きにしてあった。ここでみんなにアドバイス。手にした成功を放したくなかったら、その手をガムテープでぐるぐる巻きにしておくことをおすすめする。放したくても放せないから。

「申しわけございません、坊っちゃん」と姫宮さんがキッチンからやって来て言った。「戒めのために放っておけと亜利紗さまからのご命令で。それから坊っちゃんのそのゾンビメイクは——」

「利亜夢だね」姫宮さんの口からその名が発せられる前に僕は言った。手鏡の中の自分の顔を見ながら。「素晴らしいメイクだ。むくみが気にならない。よし! それじゃあ僕はゾンビの礼にしたがって、今から利亜夢を殺しに行くとしよう。僕に殺されても利亜夢は自業自得さ。僕をゾンビにしたのは彼だからね。それにしても、僕をゾンビにしたことを後悔させてあげられないのが残念だ。彼自身がゾンビになってしまったあとでは、後悔したくてもしきれないだろうから。いや、利亜夢は僕に噛み殺されてゾンビになりたいのかもしれない。だとしたら一刻も早く彼の願いを叶えてあげなければ!」

 僕は頭痛の種である二日酔いの頭痛に見舞われた頭を励ましながら立ち上がった。そしてゾンビらしい重い足取りで、備瀬家の部屋へ行こうとした。

「待ってください、坊っちゃん」と姫宮さんが僕を止めた。彼女は僕の背後にいる。

「止めないでくれ、姫宮さん」と僕は振り向かずに、手鏡に向かって言った。手鏡の中の姫宮さんに向かって。「ゾンビは話の通じる相手ではないんだ。頭上からどんなにもっともな道理を降らせようとも、ゾンビからしてみれば、それは霧雨くらいどうってことないものなんだ」

「道理をわきまえているゾンビもわきまえていないゾンビも、私はどちらも存じ上げませんが」と手鏡の中の姫宮さんが言った。「亜利紗さまと利亜夢坊っちゃんは、チャッキーを連れてドッグカフェへお出かけになったんです、十分ほど前に」

 僕は振り返って姫宮さんを見た。

「利亜夢坊っちゃんはゾンビになり損ねたようで」と言って姫宮さんは僕に頭を下げた。

「運のない子供だ!」と僕は叫んだ。

 で、姫宮さんについて。前にも少し話したけど、姫宮さんは僕の家の家政婦さんだ。でも姫宮さんは家政婦と言っても、終日僕の家にいるわけではない。彼女は毎朝八時に来て正午頃には帰る。姫宮さんの仕事は部屋の掃除と服をクリーニングに出すことと酒の補充だけ。炊事は契約外だ。ママが炊事を一切しなかったからなのか、僕は家庭料理というものを好まない。僕は生粋のジャンクフーディストなのだ。大学に入ってから姉の手料理を食べるようになったが、それも週に一度か二度くらいさ。姫宮さんのことで一つ告げ口しちゃおう。姫宮さんはゴリラみたいな顔と体を有しているくせに、炊事がまったくできないらしい。自身の子供たちはスーパーマーケットの惣菜で育てたといつか話していた。ゴリラみたいな顔をしているおばさん(姫宮さんのことをゴリラみたいだと言う僕を差別主義者だとみなす者は、ゴリラを見下している差別主義者だ!)は料理が上手だって認識を僕は持っていたのだけれど、それは勝手な思い込みだった。人を見かけで判断してはならない、おそらくゴリラも。ゴリラみたいな顔をしているくせに炊事のできない膝上丈のメイド服を着たツインテールのおばさんがいたかと思えば、若いのに星を正確に読める渚ちゃんのような娘もいるのだ。きっとゴリラのくせに星を読めるメイド服を着たゴリラも存在するに違いない。

 僕が起きたのは正午前だった。ベッドに手招きされたが、僕はベッドのその誘いを丁重に断った。つまり二度寝を断念した。僕は冷たいシャワーを頭から浴びて死者から生者に戻ったあと、グラスに注いだターメリックジュースを一気飲みして外出した。僕には大切な用事があった。その用事がなければ、僕はドッグカフェを襲撃していたことだろう。

 僕は愛車のフォード・GTに乗り込んでから、アイフォンでマカロンの販売店を調べた。すると、自宅マンションからそう遠くないリゾートホテル内にその店はあった。僕はそのリゾートホテルに車を飛ばした。

 僕はリゾートホテルの一階にあるケーキ屋で、女子の口に収納されるためだけに生まれてきたと思われるカラフルな自家製マカロンを買った。そして僕はそのホテル内にあるレストランで昼食をとって、そのあと家に帰って夕方まで眠った。眠ったら利亜夢への仕返しのことなんて忘れてしまった(運のいい子供だ!)。

 僕が起きて車でパーラー百里へ向かい、そこに到着したのは午後六時を少し過ぎた時間である。(もちろん僕はしっかりと身なりをこしらえたさ。丁寧に体を洗って、念入りに歯磨きをして、そうしてブラジリアンワックスで鼻の中に巣くう目立ちたがり屋な暴徒を一斉検挙してやった。服装はと言うと、渚ちゃんが好きそうなニューエラのヤンキースキャップ、シュプリームのTシャツ、ステューシーのデニムパンツ、ティンバーランドのイエローブーツ、といった具合さ)。

 僕が店に入ったとき渚ちゃんはいなかった。が、それは想定内だった。前の日、渚ちゃんは六時半頃に現れたんだ。なので、僕はタコライスを食べながら渚ちゃんの到着を待つことにした(※田古田さん夫妻とちょっと喋ったけど、大した話はしなかったからスキップさせてもらう)。

 渚ちゃんが現れたのは七時ちょうど。僕が三皿目のタコライスを完食し、四皿目に突入しようかどうか占っているときだった。

 僕は席を立った。そして占術業務の準備をしている渚ちゃんに声をかけた。

「やあ! 今日も晴天で、星読み日和だね! 天気によってリーダビリティが変わってしまうものなのかどうかはよく分からないのだけれど」

 彼女は少し驚いた素振りを見せた。でもすぐに口元を緩め、挨拶してくれた。

 僕はテーブルを挟んで渚ちゃんの正面の迷える子羊たちが腰かける椅子に迷いなく座った。そして昨晩さっそく事故に遭ったことを彼女に報告した。どこか怪我はなかったですか、どういった事故に遭われたんですか、と渚ちゃんに訊かれたから、僕はこう答えた。

「言葉の弾丸を頭に何発も喰らったんだ。かと言って、その弾丸それ自体を嫌いになったわけじゃないよ。弾丸自体に悪意はないし。善意もないけど。もし体内に弾丸が残ったままでも、僕はそいつらと共存できる心と体を持ってるから大丈夫。むしろ味方がこの世に一人もいないことが分かって、その弾丸たちの存在に感謝してるくらいさ。『孤独なマジョリティ』って、おそらく僕みたいな奴のことを言うのかも」

「世界から同情されたり擁護されたりするようなマイノリティに属するくらいなら、孤独なマジョリティとして生きたほうが格好良いですよ」と言って渚ちゃんはミルクフェドのショルダーバッグから、前日に書き留めた僕の裸とも言える円グラフ的なものがプリントされた紙を取り出した。「マイノリティの方々がどのような思いを抱いていらっしゃるのかは分からないのですが、時代に擁護されるのってなんだか格好悪い気がしません? 孤高でいられるのなら、差別され続けても構わないですけどね、私は。だから私のこういった発言が誰かに共感されると不愉快になる……普通に生きていれば、嫌でも味方はできます。悪魔にだって味方ができるどころか、崇拝されることもある。なので、味方がこの世に一人もいない亜男さんの存在は必要悪より貴重です。どうでしょう、亜男さん。自分に素直に生きるということは自分を傷つけ続けるということですが、ぜひ素直に生きて、人間は独りでも生きていけることを世界に証明してみせては? 選ばれた人にしかできないことです、いえ、皮肉ではなく。ディオレッツァを逆行させているのは亜男さんなのかも! まあそんなことはさておき、今の社会をぶち壊せるのは女性だけなんです。偉人たちが築き上げた男社会を、現代のひ弱な男たちがぶっ壊せるわけない。でも悲しいかな、世の中にはプラスチックゴミみたいな厄介な女も大勢います。特に私が嫌いなのは男に貢がせる女! 私は貢がせ女とゴミ捨て場で会ったら、こう言ってやるつもりなんです。『あなたがゴミを捨てたんじゃない。ゴミがあなたを捨てたんだよ。ゴミのほうがあなたの手から放れたんだよ。そしてあなたがゴミを分別しているわけでもなく、ゴミがあなたを分別しているんだよ』って。そうそう、カメラに向かってピースサインをする女子のそれは全て『男根を切ってやる』ってサインなんで、ご注意を」

「うん。僕に味方はいないけど、僕はずっと君の味方だよ」と僕は言った。そして、マカロンの入った紙袋を彼女に渡した。

 渚ちゃんは紙袋の中を覗いて驚いていた。マカロンは透明のプラスチックケースに入っていたから、すぐにマカロンだって分かったみたいだ。それから僕は意を決して、口頭でそのマカロンに次のような焼印を押した。その焼印がなければ、ただの〈いい人〉で終わってしまうかもしれないじゃないか。

「そういうことなんだ」

 僕のその台詞を聞くと、渚ちゃんは紙袋の中に再び視線を落とした。彼女は僕の焼印入りマカロンの意味をすぐに理解できた様子だった。

 僕らはしばらく沈黙していた。渚ちゃんの視線は依然として紙袋の中にあった。店内には、ジャマイカン・イン・ニューヨークが流れていた。Oh, I’m an alien, I’m a legal alien.

 咳払いして僕は言った。「今日、星に訊いて欲しいことは一つだけなんだ。僕は明日、何をプレゼントすればいいのかな?」

 渚ちゃんは僕と一秒間だけ目を合わせたあと、厚さ0.1ミリほどの例の僕の裸に視線を移した。このとき彼女は星と会話していたのだろうか、僕にはそれを知る由もないが、とにもかくにも渚ちゃんが次のような星のお告げを僕に授けてくれるのに、そう時間はかからなかった。

「星はこう告げています。腕時計をプレゼントしなさい、と」

 つづく


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 次回の「Adan No.18」は、7月13日(土)の夜にアップします! 是非また読んでいただけると嬉しいです!