Adan #4

画家のデスティニーさん[3.5/4]

 で、僕は豚の絵を寝室の壁に掛けたその日から一週間連続でその豚に襲われる悪夢を見たわけだが、とは言えそんなことがあっても、豚の絵を寝室の壁から移そうって気は起きなかった。デスティニーさんへの愛を試されているような気がしていたし、それに移したら北斗に指摘され、笑われる。それだけは嫌だった。彼に笑われるくらいなら、毎晩悪夢を見続ける方がましだ。

 その一週間、僕は生気を失っていた。夢の中で毎日豚に殺されかけていたからではない。デスティニーさんに会えなかったのだ。スターバックスで別れる際、「次は歌手か、黒豚を」と僕が言ったら、デスティニーさんは笑顔で頷いてくれた。それなのに、だ。僕は雨の日も風の日も、デスティニーさんと出会ったアラハビーチへ行った。デスティニーさんと出会ったのは昼過ぎだったから、僕は正午頃から日没まで毎日ビーチを歩き回った。しかし、デスティニーさんは現れなかった。僕はウォーキングをして健康になっただけだった。

「気の小さい奴らだ。俺ならもっと亜男に絵を売りつけるけどな」と言って北斗はハイボールを飲んだ。

 さよならも言わず沈んでいった冷たい七日目の太陽をビーチから眺めたその日の夜、僕は北斗を那覇《なは》のダイニング・バーまで連れ出していた。北斗には悪いが、人間なら誰でもよかった。とにかく誰かと大酒を食らいたかったのだ。

「連絡先を訊く、という家訓が荻堂家にあれば、こんなことにはならなかった。それにしてもどうしたんだろう、デスティニーさん……もしかして、イサドラ・ダンカン・シンドロームで死んでしまったんじゃ——」と僕。

「きっとそうだ。そうに違いない」と北斗。

 北斗も同じ見解を示したから、というわけではない。僕はデスティニーさんを故人扱いし、悼むことを選択した。その選択肢しかなかったのだ。僕はダイニング・バーのちゃちな椅子から立ち上がる必要があった。デスティニーさんは生きているのに会えない、そう飲み込むことがこのときの僕には一番つらい、喉越しの悪いものだったのだ。

 そのダイニング・バーは午前四時までの営業だから、僕らが店を出たのはその時間だったと思われる。僕は酷く酒に酔っていた。まっすぐ歩けなかった。

 僕らは車を駐めた駐車場へ向かっていた。北斗は僕の首根っこを掴みながら、運転代行に電話をかけていた。

 そして僕らは駐車場の十数メートル手前で足を止めたわけなのだが、それはある人と出会ったからである。いや、道端に落ちていたある人を見つけたと言った方が正しい。僕は一瞬で酔いがさめた。僕はその人のそばに駆け寄った。

 道端に落ちていたのは、デスティニーさんのお兄さんだった。そのときのお兄さんの様子を例えると、成長というのは励まされた経験のある詩を読み返して胸糞悪くなることだと認識を新たにした人が破り捨てた詩集のよう、あるいは、無垢だった少女たちに無駄毛を処理する感覚で始末された貞操のよう、もしくは、勇ましかった者たちに遺棄された夢や正義や自尊心みたいな、そんな様子だった。要するに、無惨な姿だった。

 僕はお兄さんに繰り返し呼びかけた。が、応答はなかった。当然だ。お兄さんは聴覚障害者なのだ。でも、このときに限って言えば、お兄さんの聴覚に障害がなくても、もう手術を済ませて聴力を取り戻していたとしても、その耳は機能を果たせはしないだろう。

 お兄さんは飲み屋の玄関と思われる木製のドアの前で仰向けに横たわっていた。目は半開き、口は全開きで、大きないびきをかいていた。そしてお兄さんのそばには、白髪のポニーテールで、裾の長い黒のワンピースを着た細身のお婆さんが立っていた。腰は曲がっていなかったが、お婆さんの顔は皺くちゃだった。

「あんた、人見知りしない死神にも相手にされない、この飲んだくれの知り合いかい?」とお婆さんが大きな鼻から煙草の煙を吐いて僕にそう訊いた。お婆さんに吸い込まれた煙は口から出られることを知らないようだった。煙はみんな鼻から出て世界へ旅立っていた。

「知り合いっていうか、未来の義理のお兄さんっていうか」と僕は答えた。「一度お会いしたことがあるだけですけど」

 今度は歓喜に酔いそうだった。さっき供養したばかりのデスティニーさんが生き返ったのだ! お兄さんを通じてまたデスティニーさんに会える、僕はそう思ったのである。

 僕はお婆さんに、これはどうゆう状況なんですか、と尋ねた。するとお婆さんはこう答えた。

「うちの店で飲んで酔い潰れたのさ。今日も自殺は未遂に終わったってこと。毎日死に損なってる。例えるなら、夜な夜なココヤシの木の下に自殺を試みに来てるって感じ。今日もヤシの実は頭に落ちて来なかったってわけ。まあ、ヤシの実もこいつの頭なんかに落ちたくないだろうが」

 お婆さんから事の次第を聞くや否や、北斗がお兄さんを指差しながら尋ねた。「このおじさんって聴覚障害者なの? お婆ちゃんが今言ったような、小言を食えないの?」

 北斗も酔いがさめているようだった。お兄さんを疑っていたわけではなかったが、僕は息を呑んで、お婆さんの返答を待った。お婆さんは鼻から煙をゆっくり吐き出してから言った。

「こいつは聴覚障害者だよ。成人になってから聴力を失ったらしい。聞こえてないから私も気兼ねなく小言を言ってるのさ。この男の耳は何者の声も拾えない。おそらく神が耳元で叫んでも」

 僕は北斗の顔を覗き込んだ。間抜けな男の顔を拝みたかったのだ。見ると、北斗は信じられないといった表情をしてくれていた。僕は言った。

「お兄さんに感謝しろよ、北斗。これで君も少しは人を信じられるようになっただろうから」

「じゃあ、お婆ちゃん」僕を押し退けて北斗が言った。「この人の奥さんって見たことある? 両頬にほくろがある人なんだけど」

 お婆さんは首を横に振った。「それは妹。こいつに嫁なんぞいるもんか。ちなみに、その妹の両頬のほくろを同時に押すと願いが叶うか、あるいは誰かのアキレス腱が切れるらしい。セックス依存症を克服したいっていうのが私の願いなんだが……」

 デスティニーさんは嘘をつけない。えくぼをほくろでキャップする慎ましい人が嘘をつくはずないのだ、と僕は心の中でそう叫んだ。本当に兄妹なの、と北斗はお婆さんにしつこく聞き質していたが、彼のその姿は目下のお兄さんと同じくらい無様だった。

「ここはお任せください、お婆さん。僕がお兄さんを介抱します。ナイチンゲールも顔負けの介抱を」と僕は言った。

 このとき僕は頭の中でこんなシナリオを立てていた。まずお兄さんを近くのホテルまでおんぶして、快適なベッドで天使たちと大酒を食らう夢を見てもらう。それから昼過ぎに起きたお兄さんを迎え酒でもてなしたあと、ゆっくり酒風呂に浸かっていただく。で、最後に銘酒をプレゼントして車でお兄さんを自宅まで送り届けるわけだけど、お兄さんはその車中で、僕にたどたどしくもこう言う。兄弟の盃を取り交わそう、と。完璧なシナリオだ。

「介抱する必要はないよ」とお婆さんが言った。「何故なら、もうすぐその妹の両頬のほくろを同時に押すチャンスが訪れるから。つまり、もうすぐその妹の運転する迎えの車が来るから」


 つづく