Adan #7
僕にキスをしたのは誰なのか[2/7]
姉が僕の前に取り皿を置いた。そして僕は姉からモナ・リザの説明を受けた。
年齢は二十四で、名前はヒカルさん。ヒカルさんは服飾関係の仕事でロンドンに住んでいて、昨日一年ぶりに帰って来たとのこと。ヒカルさんのお姉さんが例の女の子の母親で、ヒカルさんは子守を任されてしまったらしかった。僕の姉と女の子の母親が友人で、それでヒカルさんと姉の交友が始まったとか。そして、僕に大いなる苦悩を授けてくれた女の子の名前はモラちゃん。利亜夢と同い年だった。モラちゃんは平然とした顔で、ヒカルさんの隣に座っていた。
「山羊に食べてもらうわけにいかないもんね、童貞は」
シャンパンで乾杯したあと、ヒカルさんが僕に向かってそう言った。
僕は隣に座っている利亜夢を睨みつけた。ヒカルさんの発言を聞いて、彼が吹き出したからだ(利亜夢は童貞という言葉の意味を知っているようだった)。僕は利亜夢をしばらく睨み続けた。彼だって童貞のはずだ。笑われる筋合いはない。
で、ヒカルさんの山羊発言の件だが、それは小学三年生当時にとった僕の行動を姉から聞いたからだろう。あれは確か一学期の修了式の帰り、僕は通知表をママに見せたくなかったし、その通知表だって今すぐこの世から消えてなくなりたいって顔をしていたから、山羊に召し上がってもらうことにしたのだ。ただし、ヒカルさんは勘違いしている。山羊は僕の通知表を食べなかったのだ。その山羊は学校で飼育していた山羊で、紙を見せるとすり寄って来て、はばかりなくそれを貪ることだけが取り柄のはずなのに、僕の通知表には関心を示さなかったのである。おそらくそこに記載された成績があまりに酷かったから、食欲をそがれたんだろう。
「女は造花のくせに水や肥料を欲しがる連中だからな」と上座に座っている姉が僕に向かって言った。「しかも造花のくせに枯れるし。それに最近はみな不倫するのが目的か、あるいは離婚するのが目的で結婚してるようなもんだから、何はともあれ、童貞で居続けるって選択は正しいのかもな」
姉は僕をフォローしているわけではない。彼女は皮肉を言いたいだけ——持論を展開したいだけなのだ。姉は僕と同じく、ママからもらえる小遣いで贅沢をしている(そのママは国から小遣いをもらっているわけなのだが)。僕はそんな女の持論なんて聞きたくない。しかも姉は、自分の意見を持たなければならないという一般論の脅迫に恐れをなして、無理やり自分の意見を持たされているだけなのだ、たぶん。
姉は専業主婦だが、精力的に家事をこなしているわけでもない。早々に家事を切り上げて、悪あがきとしか言えない無駄なエステティックに時間と金を費やしているのだ。姉は女を捨ててはいない。が、女という性別からは捨てられている。彼女は流石僕の姉だけあって、ブスなのだ。オレンジ色に染めた長い髪や、肌や、服装などは惜しげもなく金をつぎ込んでる甲斐あって辛うじてという感じなのだけれど、顔のパーツのフォーメーションは、一般女性ですら相手にできる隊形ではない。そしておまけに体形も悪い。姉はチャッキーと同じ趣の顔(しかも巨大! 十キロ先にいてもその表情が分かる!)をしているばかりか、背が低くて、手足が短くて、骨太の体を有しているのだ。
そんな姉とヒカルさんはパエリアを食べながら、「世界中にいる出しゃばりたちが社会に貢献しようと思わなければ社会は良くなる」という話をしていたんだが、不意にヒカルさんが僕の方を向いてこう言った。
「それはそうと、亜男くん。セックスの経験はなくても、キスはしたことあるでしょ?」
僕は返答に窮した。子供のいる食卓にセックスってワードの副食物が出て動揺したのと、モラちゃんの視線を感じていたのと、それに何より、ついさっき過激なキスをやったばかりなのだ。
結局、僕はこういう返答しかできなかった。ただ俯いて、スプーンでエビの口元辺りをつつく、という返答しか。
「亜男を見くびるなよ、ヒカル」大きな顔をして姉が言った。「歯がすべてなくなれば虫歯に悩まされることもないのにって発言をするくらい、亜男はオーラルケアに気を遣ってるんだよ。当然キスくらいしたことあるよ」
僕はモラちゃんを見た。モラちゃんは、キスならさっきしたよね、とでも言いたげな表情で僕を見ながら、エビの頭をもぎ取っていた。
でも、僕はそんなモラちゃんの余裕綽々たる態度に困惑しなかった。何故なら、ヒカルさんの発言の方に困惑したからだ。ヒカルさんはこのとき陽光照りつけるルーフバルコニーの方に顔を向けながら、ぼそっとこう言ったんだ。
「さっきのキスは激しかった……」
つづく