Adan #2
画家のデスティニーさん[2/4]
およそ二十一時間後の午後六時過ぎ、デスティニーさんとの待ち合わせ場所へ向かう僕の車の助手席には北斗の姿があった。僕はデスティニーさんと二人きりで会いたかったから、面白くない気分だった。なのでわざと気持ちの悪いブレーキングをして、気を紛らわせていた。僕が北斗の同行を許したのは彼が、ミセス・オギドウになる人かもしれないから挨拶しておきたい、と言ったからだ。
僕とデスティニーさんはアメリカンビレッジ(北谷町のエンターテインメントエリアだ)のスターバックスで待ち合わせをしていた。デスティニーさんがそこを指定したのだ。
僕らは約束の時間の一〇分前にスターバックスに着いた。生真面目に違いないデスティニーさんはもう来ていて待っているだろうと察しはついていたが、やはり彼女は来ていた。店内の席に座っていた。
デスティニーさんは美しかった。彼女は白のブラウスに赤のロング・スカーフ、ベージュの長いタイトスカートという姿だった。そしてデスティニーさんも一人じゃなかった。痩せてて、ぼさぼさ頭で、無精ひげで、皺だらけの白いワイシャツを着た中年の男と一緒だった。
「すみません、お待たせしたみたいで」「いえ、私たちもいま来たところです」というお馴染みのやり取りをしたあと、僕はデスティニーさんの隣に座っているその中年の男に会釈した。すると中年の男は無駄に並びのいい黄色い歯を見せて会釈を返してくれた。
それから僕は立ったまま北斗をデスティニーさんに軽く紹介したあと、彼女に断りを入れてからカウンターへ行った。カウンターで僕は極限まで甘くカスタマイズしたキャラメル・フラペチーノのベンティを、北斗はアイスのカフェ・アメリカーノのショートを注文し、僕らはそれをスタッフから受け取ってデスティニーさんのいる席に戻った。
席に戻った僕は、タリーズコーヒーがスターバックスに差し向けた悪霊としか思えないその中年の男(まあスターバックスもタリーズコーヒーに同種の刺客を送り込んでいるんだろうが)のことをデスティニーさんに尋ねた。するとデスティニーさんは、私の兄です、と答えた。それを聞いて僕は焦った。僕がデスティニーさんの交際相手に相応しいのかどうか、お兄さんが見極めに来たと思ったのだ。
「兄は聴覚障害者なんです。中途失聴者です」
おどおどしていた僕を尻目にデスティニーさんはそうつけ加えたわけだが、僕は彼女のその発言に際しては少し驚いただけで、特別何も思わなかった。いや、何も思わなかったというのは語弊がある。どうでもいいと思ったわけでも、無分別に同情心を抱いたわけでもない、そういう意味で何も思わなかったのだ。
デスティニーさんに返す言葉が見つからなかったから、僕は改めて悪霊——いや、とても優しそうなお兄さんに向かって会釈した。僕が会釈すると、お兄さんも僕にまた会釈を返してくれた。
デスティニーさんがお兄さんに一瞥を投げてから言った。「私は兄に耳の痛い話をたくさんしてやりたいんです。何が言いたいのかというと、兄に人工内耳手術を受けさせたいんです」
口は開いていたかもしれないが、僕は依然として黙っていた。しかしそれは返答に窮していたわけでも、ジンコウナイジシュジュツという聞いたことのないフレーズによってフリーズしたからってわけでもない。僕はデスティニーさんの真剣な眼差しに見とれていたのである。
「手話で説教を——言うなれば、目の痛い話はもうしたくないってわけですか。確かに人工内耳手術を受けて聴力を取り戻した人は大勢いると聞いたことがあります。で?」と北斗がフラペチーノよりも冷たい声で言った。
お兄さんが聴覚障害者でよかったと僕は思った。こんな冷たい声の薄情者を友に持つ男と、自分の可愛い妹の交際を許す兄はいないだろう。北斗はハンサムだったらどんな言動をとっても許されると思っている、たぶん。ハンサムが正義というのは確かに永遠不変の真理だが、世界はその真理だけで回っているわけではないのだ。
「荻堂さんに私の描いた豚の飼育をお願いしたいんです。世話のかかる豚ではありません。しつけも必要ありません。ネガティブな要素は食べられないことくらいです。その豚と引き換えに頂いたお金で、兄に手術を受けさせたいんです」とデスティニーさんが北斗に向かって言った。
「その豚、ワクチン接種は済ませてます? なんて冗談はさておき、今あなたがお兄さんの障害者手帳を持っているのなら、それを拝見してみたいなって思っちゃったんですけど、こんなことを思う俺ってまったくもって非常識な人間ですよね。そう思いません?」
北斗がそんな非常識なことを言ったもんだから、僕は恥ずかしくて顔向けできないといった顔をデスティニーさんに向けた。その顔向けできないといった顔でデスティニーさんと顔を合わせたかったわけだ。しかし、デスティニーさんは僕に顔を向けてくれなかった。彼女は北斗に向かって微笑んでいた。
それからデスティニーさんはキャンバス生地のトートバッグから障害者手帳(本物に決まってる!)を取り出して北斗に渡したのだけれど、北斗がデスティニーさんから障害者手帳を受け取ってすぐ、僕は彼からその手帳を取り上げた。
「やめてください、デスティニーさん。同情を引かないと自分の絵なんてもう買ってもらえないと思ってるんですか?」と僕はそう言いながら手帳をデスティニーさんの前に置き、しつけの悪い北斗を手で制した。本当なら足で制したかったくらいだ。僕は続けて言った。「友人が失礼しました。彼は悪い人間ではないのですが、人を信じることができないんです。彼のこの性格は貧乏な家庭で育ったせいで、彼は何も悪くないんです、貧乏が全部悪いっていうか。さて、そろそろ豚と対面したいのですが」
僕はお兄さんを見た。お兄さんは絵を梱包したと見られる厚みのない段ボール箱を、その厚みのない胸板に立てかけている。
デスティニーさんの対応は迅速だった。彼女はお兄さんから段ボール箱を取って中から絵を出し、僕に差し出した。僕はその絵を両手で受け取った。
今度の絵はプラスチックの白い額縁に入っていた。が、それ以外は踊り子の絵と同様だった。同じく画面の右下には「デスティニー」とカタカナでサインが入っていて、画用紙のサイズも筆遣いも一緒だった。
僕は絵を見た瞬間から、しばらく全身に電気が走っているような感覚に陥っていた。腹を空かせたスマートフォンにその電気を奢ってやりたい気分だった。なぜ僕がそのような感覚に陥っていたのかというと、例によってデスティニーさんの絵が言葉で言い表せない絵だったからだ。デスティニーさんなら外角の和が百八十度の三角形を平面上に描くこともできるだろうなと思った。
「タイトルは?」と僕は恐る恐るデスティニーさんに訊いた。
デスティニーさんは目を輝かせてこう答えた。「『真珠の価値を把握している豚』です」
つづく