Adan #3

画家のデスティニーさん[3/4]

 北斗と豚を連れて家に帰ってきたときには、もう日は沈んで夜になっていた。

 僕は北谷町にある二十四階建てのマンションに住んでいる。百平米超の2SLDK、最上階の部屋だ。僕がこの部屋で一人暮らしを始めたのは大学生になってから。ママは今、ブレントウッド(アメリカ合衆国カリフォルニア州の)に住んでいる。パパは僕が四歳のときに心臓の病気で死んだ。ちなみに婿養子だった僕のパパ、荻堂米男《おぎどうよねお》は東京出身だ。それから僕には五つ上の姉がいる。姉は結婚していて、子供も一人いる。姉夫婦も僕と同じマンション、同階に住んでいる。

「二十万やるからこの絵をもらってくれって言われても、俺は断る」と北斗は言った。

 僕は豚の絵を二十万円で買った。人工内耳手術の費用が二十万で収まるらしいのだ。現金で支払った。お金を渡すときデスティニーさんと少し手が触れ合ったのだが、彼女の手はとても冷たかった。僕は豚の絵を寝室の壁に掛けながら、その冷たかった彼女の手を両手で温かく包み込めばよかったと後悔した。その後悔の大きさは、子供の頃レジャープールで溺れて監視員さんに助けられたとき、いずれにせよ助かるのなら深いプールで溺れた方が格好がついた、と悔いたそれよりずっと大きなものだった。

「そんな絵を寝室に飾ったら、毎晩悪夢を見るぞ」と僕の背後で北斗が言った。僕は豚の絵を壁に掛け終えたところだった。

「悪夢なんて見るわけないじゃないか」と僕は振り返って言った。「テッポウユリでロシアンルーレットをするようなところで、天使たちと徹夜でスクエア・ダンスを踊る夢を見られるだろうよ。ひょっとしたら居間にいる踊り子も参加してくれるかもしれない」

「踊り子の絵もこの絵もそうだが」北斗は豚の絵を指差しながら言った。「タイトルが稚拙すぎる。絵に自信がないから、タイトルに変な力が入ってしまうんだろう——っていうかこれ、豚なのか? 真珠の価値を把握してるっていうその頭が、どこにあるのかもよく分からねえ。分かりたくもないが」

「真珠の価値を把握している頭がどこにあるのか分からないように描いてるのさ、あえて」

 僕がそう言ったあとも、北斗はデスティニーさんの絵に向かって悪たれ口を叩き続けていた。北斗のそれはまるで、我慢するのが一番体に悪い、という大抵すぐかかる自己催眠をかけてダイエットを諦めることに成功した女が、クアドロプル・バイパス・バーガー(世界一高カロリーのハンバーガーだ。一個9982キロカロリー)を貪っているかのようだった。

 芸術のことを何も知らない北斗に、これ以上デスティニーさんの絵を悪く言われるのは流石の僕でも堪えかねた。そういうわけで僕は北斗を黙らせるために、彼に向かってドミノ・ピザのメニューを投げつけた。すると案の定、北斗は骨を咥えた犬のように黙った。

 それから僕と北斗は居間のソファに座ってピューター製のビア・マグ(中身はコカ・コーラとスタウトを混ぜて作ったディーゼルというカクテルだ。トロイの木馬ともいうが)を右手に、電子葉巻《エレクトロニックシガー》を左手に持って、デスティニーさんとお兄さんの話をしながらピザの到着を待っていたわけだが、次に示すのはそのとき北斗の口から発射されたものである。まったく口が減らない奴だ、腹は減るくせに。

「あの女はどう見ても俺たちより二回り年上だ」
「あの二人は兄妹ではなく夫婦だ」
「あの男は健常者だ」
「おそらく手話は出鱈目、たどたどしい喋りは演技だ」
「あの障害者手帳は偽造だ」
「亜男に絵を売るのならもっと高い金を請求しやがれ」

 非常に不愉快だった。彼は何様のつもりで僕の恋路の検問を実施しているのだろうか。しかも酒気帯びで取り締まりを行うとは何事か。僕の用意した酒のアルコールでこれ以上調子に乗られたらたまったもんじゃない。北斗はプレーボーイだ。が、それだけだ。北斗は人生についてもそうだが、恋愛についても一面的な批評しかできないのだ。

 僕はそんな未熟者に、ピザを食べさせてやる前に金言を与えてやることにした。デリバリーピザの前菜としては豪華すぎるけれど。

「北斗、君が美しいと感じる愛だけが、愛じゃないんだぞ」

 予想通り北斗はことさらにきょとんとした顔をして僕を馬鹿にしたけれども、その金言の補足をする前に誤解を解かなければならないと思ったから、僕はこう続けた。

「北斗、君は誤解している。僕はデスティニーさんを好きになったから彼女の絵を買っているわけじゃない。デスティニーさんの絵を素晴らしいと思っているから買ってるんだ」

「いいや、違うな」と北斗。「好きになった人の作品だから、無意識にそれを認めようとしているだけだろう」

 話にならない。こんな奴にどうして今まで僕の友人が務まっていたのか、その理由を誰かに教えてもらいたかった。

 僕はやや早口で、先に述べた金言の補足に着手した。なぜ早口だったのかというと、もうピザは最終コーナーを曲がっていてもおかしくない時間だったんだ。

「北斗、繰り返し言うが、君が美しいと感じる愛だけが愛じゃないんだぞ。仮に——仮にだぞ、僕の知らない僕がデスティニーさんの作品を認めるよう働きかけていたとする。それのどこがいけないんだ? デスティニーさんに対する愛と、デスティニーさんの作品に対する愛を混同させても別にいいじゃないか。それから、もしデスティニーさんが僕のお金目当てでも、僕はそれでもいいんだ。僕はお金目当ての女性とでも本物の愛を築けると信じているからね。喋ってて気づいたんだが北斗、僕は今、いろんな愛の形があることを理解しようとしない、君のその姿勢に怒りを覚えている」

「亜男、俺がお前の恋愛観を咎めたことがこれまで一度だってあったか? 今回だってお前の恋愛観を否定するつもりはないんだぜ。笑いの種に事欠きたくないからな。まあ、今日俺が付き合ってやったのは冷やかしのつもりだったわけだが、その自称画家の兄貴だと紹介された男が本当に聴覚障害者なのかどうか、俺がそのことを自称画家に尋問したのは、どういう風の吹き回しか、どこからともなく湧いてきた正義感って奴の仕業なんだぞ。亜男、俺は今、そんな正義感に満ち溢れた友を理解しようとしない、お前のその姿勢に怒りを覚えている」

 美しい平行線だ。

 それから僕らは罵り合いに勤しんだわけだが、その仕事はお互い長続きしなかった。双方とも怒りの矛先が変わったのだ。僕らが矛先を向けたのはドミノ・ピザだ。いつもなら二十分以内に来るピザが、注文してから三十分経ってもまだ届いていなかったのである。

 僕は体温が低下し始めたであろうピザの安否を問おうと、スマートフォンでドミノ・ピザに電話した。すると衝撃の事実を告げられた。電話係から調理係への伝達ミスで、僕らのドミノ・デラックスはまだ作っていないと告げられたのだ!

 代金は半額でいいですから、と電話係の青年(たぶん)は言ってくれた。が、僕はこう言って注文を取り止め、北斗とシェーキーズに行った。

「そういえば今晩からダイエットする予定だったので、もう結構です」


 つづく