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香りを捧げよ、と言わない珍しい神

パフュームの語源
香水や香料を意味するperfumeの語源はラテン語のper fumum(ペルフムーム)。フムームが煙なので”煙を通して”という言葉からパルファン、パフュームという言葉が生じた。

何かを火にくべて煙を介して味わったのが香りであり、その場面を考えれば、宗教的な儀式の想像がつく。天に立ち上る煙が異界に届く。いい香りをさせながら。きっとそこにいる存在、たとえば神は喜んでくれるだろう。
そういう思考はごく自然なものだったのだろう。

宗教儀式での捧げものとして火にくべられたもの、それが香水や香料の原始の姿。
なので、いろいろな宗教に香りは介在する。
旧約聖書には乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)の他にシナモンなんかも頻出する。
新約聖書で最後までキリストに従った女性マグダラのマリアは最初にキリストに香油を塗る。
イスラムの預言者マホメットは「私の汗はバラの香り」と宣言した。
仏教にも香水(こうずい)という言葉があり、また香典というようにやはり香りはお供えに欠かせないものだった。
ヒンドゥでも線香のようなものを焚くし、アユルヴェーダも当然、重要なファクターでたくさんの香りが取りざたされる。

全部調べ尽くしたわけではないけれど、あらゆる宗教には神に捧げる香りについて言及している。

香りについて取り沙汰しない宗教
が、神道には香りの記述がない(らしい)。(これも全部は調べていない)
つくづく興味深いと思っていたところ、
数年前に東洋哲学者の先生にお会いいて神道について伺った時、
この香りの記述がない謎が解けた。
解けたのだけれど、その時の話をすっかり忘れている。
もしかすると決定打ではなく、うまく自分なりに辻褄を合わせることができた、程度だったのかもしれない。

在香民族 私論
ひとつ私なりの仮説として「在香民族(ざいこうみんぞく)」というのがある。
これは私の造語だけれど。
人と香りの関係は3つの働きにわけられる。一つは香水をつけるとか香りを捧げるとかの行為。これは付香。もう一つは消臭。捧げものでも生贄の臭いのマスキングのために使う香りは消臭に近い。
そして最後に「在香」。これは付けるでも消すでもなく、そこに在る香りの状態。意識的にも無意識的にもそれを受け止めている。
神道の民は在香民族であったのではないかな。
アートの面でも究極の人間性の再現を目指す西洋や、龍のような深淵の神秘を追求する中国と異なり、野の草花や虫の音、些細な移ろいの心を留めてきたこの島国では、八百万に宿る香りをそのままに恩恵と欲しそのままを捧げものにしてきたのではないかな。
そのくらい、自然の中の匂い、に気持ちがフィットしている民なのかもしれない。
(ここでいうのは今でいう国籍や信仰とは別の話です。)

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