サンローランの盟友ベティ・カトル―展にシャネルの偉業を想う
ベティ・カトル―に焦点を当てサンローランのクリエイティブを辿る企画展。3つの発見を抱きながら堪能しました。
サンローランのミューズは破滅しなかった
パリのサンローラン美術館と対局
サンローランのクリエイティブに垣間見るシャネルの偉業
サンローランのミューズは破滅しなかった
ベティ・カトルーはある意味サンローランのミューズだったと言っていい。(カトリーヌ・ドヌーブはサンローランのお姫様なのかも)
ミューズとアーティスト・・・モンパルナスのキキとマン・レイ、ウォーホールとイーディ・セジウィック。特に映画で見たイーディの破滅ぶり、ウォーホールの陰鬱なエゴイムズのイメージのせいか、ほぼ同時代にありながら、そして同じように羽目を外す夜を繰り返しながらも、関係は破綻せず、77歳になる現在もベティはカッコよくて自立している。これは、どちらかではなくサンローランにもベティにも起因しているのだと思う。仮説だけれど、サンローランにもベティにも他に依存する先が、選択肢が常にあったのかもしれない。
パリのサンローラン美術館と対局の世界
2019 年に訪れたパリのサンローラン美術館。オリエンタリズム、モダンアート、フォークロアな色彩とフォルム、多様な世界観をサンローランというエレガントでまとめ上げたThis is の世界観でした。
今回はパリの美術館とは対極をなすシンプル、ミニマム、マスキュリンの世界観。それはやはりベティ・カトル―が好んだスタイルに則っているから。ショートフィルムの中でスカーフとネイルをした写真を「これは嫌い」というカトル―、サンローランとの出会いの前から男性服を好み、アクセサリーなどの装飾を嫌っていた彼女ならではの構成。そうえいば、カジュアルやマスキュリン、サファリルックなどはたまたまかもしれないけれど、行った時のパリのサンローラン美術館では見れなかった。長いキャリアを持つ多彩なクリエイターの何を切り取るか、対局ぶりが興味深い。
シャネルの偉業をサンローランのクリエーションに垣間見る
少し前まで、三菱一号美術館で開催されていたシャネル展。
レザー、スパンコール、シルク、いずれもシックなサンローランの黒のファッションを眺めながら、シャネルのリトルブラックドレスを思い出していた。
リトルブラックドレスに限らず、シャネルのデザインしたファッションは総じて微かに裾が拡がるスカート、なだらかで自然な肩やウエストのライン、身体の動きにフィットする素材感、レースなどの装飾は必要最低限でありつつ、最大限の効果、などなどシャネルのポリシーに貫かれたもの。
この、微かな裾の広がりやひざ丈、なだらかなラインというのは、今の私には少しお嬢様風を感じさせるものでもあった。
一方、今回目の当たりにしたサンローランの特にタキシード風の夜会服やスーツは、どれも肩やウエストのラインが直線的でシャープ、カッコよさの極み。それもエレガントなカッコよさ。
ここにも小さな対比が存在するけれど、やはりシャネルの築いたもの(あるいは壊したもの)の延長戦上に現在に至るすべてがあるのだと感じた。
だから、シャネルのクリエイションがお嬢様風だったのではなく、シャネルが塗り替えた女性のファションの価値観の上に、後に続く人が様々な世界を築いた、ということなのだと思う。
シャネルが一気に塗り替えた新しい時代の価値観、先に触れたような彼女のクリエイティブ、そこを出発点にして、ある時ディオールは”それ”と真逆のクリエイション~ニュールック~を、ある時サンローランは、さらにそれを研ぎ澄ましたマスキュリンをクリエイションしたと確信できた。
シャネル展で目にしたファッションはどれも、それを着て歩く時、踊る時、階段を駆け上がる時の美しさが容易に想像できました。アクティブであることを前提にしたモード。
それと比べると実は、直線美のタキシードドレスは少し動きずらいかも、という思い。
シャネルが20世紀以降の礎を築いたから、一気に女性のファッションは女性を拘束するものではなくなった。だから、その後は、直線美も曲線美も、過度な装飾も、シンプルも、どうあれ、19世紀まで続いたものとはまるで違う。まるで違うという土台の上に21世紀の今日もファッションはある。シャネルがアップデートしたファッションのアップグレードは常に行われてきたけれど、シャネル後のアップデートはまだ、と再認識。
その中で、サンローランは異ジャンルや異国に視野を広げ、反骨心を持ちながら、そのクリエーションを”優美”で貫いたと思う。その中のミニマムで前衛的なクリエイション、今回の展示も圧巻だった。