人間社会と米櫃の米
まことに人間社会というものが、炊飯器に入った米粒のように、単なる「人間の集まり」であるに過ぎないならば、経済的に豊かにし、政治的にも運営が順調に進み、科学的にも便利なものを工夫して発展し、「人間」というお米を「幸福」という調和のとれた美味しいご飯に炊き上げてしまうことができるように思います。
しかし人間社会というものは、決してそんな米櫃に入っている米粒のような集まりではなく、米粒にたとえた人間社会の一人一人が、
「野獣のように、自分が物足りよう、自分が満足しようという牙を持ち、他人より優位に立ちたい、自己主張したいという牙を持った自分」
であろうとするところに問題があるように思われます。米粒一粒一粒が互いに自己主張し、互いに優位を競っている中では全体としてのご飯が旨く炊きあがるはずはありませんよね。
有史以来、人間社会に対立や戦争がなくならないのも、その根底には、人間一人一人の中にある、物足りよう、自分がより優先して物足りようとする人間の欲望本能が関わっていると思えてなりません。
旧約聖書の創世記第3章に人間の原罪を語った文章があります。その1つに
「人は生まれながらにして、自分の欲望を優先してしまう傾向を持っている」
という意味合いの文章があります。無くすことが不可能な元々人間に備わってしまっている本性、それを原罪という言葉でキリスト教は語ります。そしてこんな文章を書いている私自身もその中の一人であることを認めざるを得ません。恥ずかしながら。
この人間に元々備わってしまっている本性、原罪をどうやって乗り越え、「人間」というお米を「幸福」というご飯に炊き上げることが出来得るのか、これは有史以来、私たち人間に与えられた乗り越えようにも乗り越えられない永遠の課題なのだろうと、自己矛盾は承知の上で私は思っています。
でも乗り越えてみたい。