見出し画像

座禅に挑戦してみて思う矛盾

人間というものは、あらん限りの悩みや迷いという自分にとってそれほど必要もない余計な思いをわざわざ自分自身で作りだしたり探し出したりして、自ら自分自身を苦しみ迷おうとする動物のようです。

というのは一体私たちの普段の生活は、物足りよう物足りようの思いで、駆けずり回っているのですが、では私たちはいつか物足りて安らうかというと、そうではなく、実はいつも、いたるところで、自分の思うようにならないで、誰もが悩み苦しんでいるようです。私はその典型の一人です。

この「物足りよう」の思いをふつう仏教では「煩悩」と名付け、心を静める目的を持って座禅修行をなさっている方々もいらっしゃると思います。その方々は「坐禅とはそんな煩悩を静めて悟りを開くものだ」と思って努力されているのだと思います。

けれど、さて、いざ始めてみると、実はこんな修行の仕方そのものが、とても大きな矛盾を含んでいることに気付いてしまうはずです。というのは、坐禅修行することによって、何とか自分の心を静めよう静めようと思う、そのことそのものが、実はなんのことはない、あの物足りようの思いそのものだったのです。煩悩がちょっと姿を変えて表われたものでしかなかったのです。それでこんなふうに「物足りようの思いを静めよう」とすることが、かえって「静めよう、静めようの思い」の暴れまくりとなり、結局、際限のない物足りようとする際限のない煩悩の渦に陥ってしまうようです。

思い悩む、反省、後悔という余計な能力を持ってしまった私たち人間は「物足りよう」とする煩悩と共存しながら仲良く生きて行くしかないようですね。ある意味このことが人間らしいということのようです。

いいなと思ったら応援しよう!