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人間精神は果たして進歩したのか?

人類は歴史上、実に様々な発明発見をし、色々な文化文明を生み出してきました。それは数え上げたら切りがないほどで、私たちは日々、それらの恩恵に浴しているわけですが、しかし考えてみれば、それによって肝心の人間である私たちそれぞれ個々の精神が高められ、より尊い人間性を持つに至ったのか、どうか。もちろん私も含めて。

洞窟に住んでいた原始人類が、そのまま便利で広壮な高層マンションや邸宅に住んで、色々便利な機具を使うようになっただけではないのか。石やじりで戦う代わりに、ミサイルや核兵器などで大量殺戮をやらかすことができるようになっただけなのではないのか。

本当の私たち人間は人間にだけ唯一備わる能力、すなわち「反省する能力」を持って、自分が生きている現実の姿と、少なくとも自分が考える「あるべき人間としての自分の姿」の両方を見つめつつ、あるべき姿にたどり着けない自分をこれで良いのかと常に自分自身に問い続けているはずなのに。

そんなことは少しも考えず、依然として野蛮な、自分だけ「物足りよう」「物足りよう」と際限のない自分1人の欲望を増大させ、結局、上手く行かず、「物足りない」「不満だ」とぐずり、その物足りないという不満な感情の責任を自分自身には向けず、世間や他国や他民族や個々の他人のせいだと手前勝手に決めつけ、傷つけ合い、殺し合う。

こう書いている私もそんな代表的な一人なのだと思います。殺し合ったりする戦いの経験はありませんが。

自分の思い通りに人生を運ぶことができず、その「物足りなさ」「イラつき」を自分以外の方々やこの世の中のせいにし、そのために自分以外の方々の心をいつの間にか傷つけ、その方々に悩みを抱かせ苦しませたことが多かったのではないか。本能のままに自分の人生の満足を最優先にして生きる野蛮な人生を過ごしてきたのではないか、と。

中国唐時代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の著書、『趙州録』の1節に
「ある女性が私の人生は苦しいことばかりですがどうしたら幸せになれるでしょうか、と趙州和尚に問いました。趙州和尚は、誰もかれもみんな、極楽へ行ってくれ。私だけはいつまでも苦界に居たいものだ、と言われた。」と書かれています。
自分が人間世界で一番苦しいなら他の人々は少なくとも自分より幸せなんだからこんな素晴らしいことはない、という意味ですね。

自分自身の本能欲望のまま、他の人々の幸せを考えないわけではないが、それよりも優先して自分の幸せを願う恥ずかしい人生を送ってしまった自分に対して自戒を込めてこの文章を書いてみました。

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