大衆意識と自己意識
オルテガという、スペインの哲学者が
「大衆たるためには、なにも個人が集団をなして現われなくともいい。たった一人の人間についても、彼が大衆であるか、そうでないかは識別できる。それは自らを、一個の平均的存在とみなしていられる人間、いやむしろ、自らが一個の平均的存在であることのうちに、はじめて安心できる人間、このような人間が大衆というものなのだ」
と言っていますが、そういえば大衆という集合名詞をもって呼べば、そのあとに何も残らない私たちの姿を何となく寂しく思えてしまいます。
とにかくこんなふうに「貴方もそうなら、私もそう」というので安心しているのは、まったく頼りない気がしますが、しかしさりとて、これとは反対に、社会のリズムにまったく乗れないというのも、これまた困りものであることも事実です。
例えば、みんなが「今年は豊年満作だから秋祭りをニギニギしくやろう」と言っているのに「いや、オレは反対だ」とリキミだす人がいるものです。
こんなのは「自己がある」というのではなくて「我が強い」とうのであって、そんな人は、やっぱり、社会からのけものになっていっても仕方がないのかもしれません。
我々人間は、いうまでもなく、世の中、社会の中に生きています。だから世の中、社会から切り離れて、自己というものはあり得ません。人間の自己とは社会と共にあります。いや人間の自己とは社会それぐるみでなければならないような気がします。自己=社会ですね。
それはそれ、、適当にみんなと調子を合わせて踊りながら、そこにハッキリとした自己をもつのでなければ、いや、ハッキリした自己をもてばこそ、他との調子も自然に取れていると言えるのかもしれません。
そこで真の自己とは何か、このことを考えてみることは、世の中に生きていく処世上からいっても大切なことであると言わねばなりません。
ところが単に処世上のためというばかりでなく、この人生に安らいをもって生きて行こうという観点から見れば、実にこの自己の究明、整理整頓こそ、もっとも根本の問題としなければならないような気がします。私には永遠に無理かもしれませんが、努力してみます。