わたしが彼女を愛した理由 5 バンコク出張編
朝の静けさの中で心と体を整えようと、ヨガマットを部屋の中央に広げた。まだ少し緊張が残る体を感じつつ、深呼吸をした。空気には湿り気があり、肌に優しくまとわりつく。今日、Linと会うまでの時間で、少しでも自分をリラックスさせたかった。まずは軽いストレッチから始め、腕を天井に向けて伸ばす。呼吸を深めるたびに、肩や背中に溜まった張りが少しずつ解放され、ヨガの動きに合わせて心も柔らかくなっていくのを感じた。体を反らしながら、心の中でいくつもの思いがよぎった。Linと会うことへの期待、そして初めて感じる緊張。手足を伸ばし、バランスの取れたポーズを取ると、思考が徐々に静まっていくのを感じた。「今は自然体でいよう」――心の中でそう繰り返しながら、ヨガに集中することで、心と体が整い始める。
シャワーを浴びにバスルームへ向かう。鏡に映る自分の顔を見つめると、今朝は少しだけ顔色が明るく見える気がする。シャワーを終え、深呼吸をして、軽くファンデーションをつけ、リップを薄く塗る。これで十分。Linと会う今日、過剰に作り込む必要はない。自然な自分でいたいという気持ちが、どこか心の奥にあった。白いTシャツと黒のショートパンツに着替えると、身体の軽さが心に広がっていく。窓を少しだけ開けてみると、外のバンコクの喧騒が遠くから微かに聞こえ、湿った風が部屋に入り込んでくる。この風は東京では感じないものだ。ゆっくりと流れるこの時間が、穏やかに包み込んでいる。
鏡の前で最後に自分を確認すると、少しだけ微笑んでいる自分に気づく。これでいい。Linと会うための準備は整った。今日は何が待っているのだろうか、その期待と共に、胸が少しだけ高鳴っていた。
8時までまだ30分ほど時間があった。準備は整ったが、心は少し落ち着かない。待っている間、何か気持ちを整えることがしたくて、ホテルの朝食会場に向かうことにした。しかし、会場はすでに混雑していて、席を見つけるのも大変そうだ。混雑した空間に自分を置くのは今の気分には合わない気がしたので、隣にある小さなカフェに足を向けた。カフェは静かで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。カウンターでホットコーヒーをオーダーし、窓際の席に腰掛ける。Linが早く来たとしても、すぐにホテルに戻れる場所だ。静かにコーヒーが運ばれてきて、カップから立ち上る香ばしい香りが鼻をくすぐる。ゆっくりと一口含むと、ほろ苦さが舌に広がり、心が少しずつ落ち着いていく。
外のバンコクの街はすでに動き始めているが、カフェの中は静寂に包まれていて、まるで別の空間にいるかのようだった。コーヒーの温かさが体にじんわりと染み込み、胸に感じていた軽い緊張が少しずつ和らいでいくのを感じる。窓の外を眺めながら、今日Linと会うことを思うと、ひとり、微笑んでしまう。期待と不安が入り混じりながらも、今はこの朝のひとときが、自分を整えてくれているようだった。
8時少し前にホテルのロビーに戻ると、Linはすでに到着していた。昨日と同じように、彼女はカジュアルな服装で、背中には大きなバックパックを背負っている。バッグには撮影機材が入っているのだろうか?、そんなことを考えながら、彼女に目を向ける。その姿は遠くからでも、美しさと佇まいが人目を引いているのがわかる。しかし、緊張感はほとんどなく、むしろ昨日よりもリラックスして近づくことができた。昨日Linと過ごした時間が、心を軽くしてくれている気がした。
「おはよう、ごめんね、待った?」と声をかけると、Linは振り向き、柔らかな笑顔を浮かべて首を軽く振った。「ううん、全然待ってないよ」と、彼女はさらりと答える。その言葉に、少しほっとしながら、彼女と再び会えたことに喜びを感じる。
タクシーの中で窓の外を眺めながら、私は今日の予定についてLinに尋ねた。車内に心地よい静けさが流れる中、Linは穏やかな声で答えた。「昼前にはビーチに着くと思うよ。そこから1時間くらい撮影をする予定。それで、その間に水着を選んでおいてくれる?」
Linがさらりとそう言ったとき、心の中で微かな波が立った。私は彼女が仕事をしている姿を近くで見たかった。あの真剣な表情でカメラを構える姿に、どれだけ引き込まれるのかを知ってみたかったし、水着だって一緒に選んでほしかった。でも、それを口にする勇気は出なかった。彼女のプロとしての時間に、自分の感情を押し込むのはわがままな気がした。「その後は、ランチを一緒にして、海も楽しもうね」とLinが続ける。彼女の穏やかな提案に、心の奥にあった緊張が少し緩むのを感じた。ランチを共にすること、海でリラックスすること、それが二人だけの時間になることに、小さな期待と高揚感が心の中に広がっていく。言えなかった思いを抱えながらも、Linと過ごす今日がどんなふうに進んでいくのかを想像し、胸が少しずつ高鳴っていた。
バス乗り場に到着すると、ちょうど9時の便が出るところだった。Linが事前に予約をしてくれていたおかげで、チケットはスムーズに発券された。彼女の気遣いにに感謝しつつ、私たちは近くの売店でお茶とスナックを買い込み、バスに乗り込む。バスの中はエアコンがほどよく効いており、外の熱気とは対照的な涼しさが漂っている。トイレも完備されていて、長距離の移動でも快適に過ごせそうだった。Linの隣の席に座ると、彼女との距離の近さを意識してしまう。彼女の横顔がすぐそばにあり、その温かさや存在感を感じられる位置。嬉しさと同時に、緊張が少しずつ高まっているのを感じた。
バスが静かに走り出し、しばらく窓の外の景色を眺めていた。バンコクの喧騒が遠ざかり、郊外の風景が広がり始める。Linはいつも通り落ち着いていて、「渋滞がなければ、11時頃には着くはずだよ」と言う。その穏やかな声が、私を少し安心させてくれた。
しばらく雑談を交わしながら時間が過ぎていく中、会話はプライベートな話題へと移っていった。Linがふいに「彼氏はいるの?」と軽く聞いてきた瞬間、心が一瞬で波立った。突然の質問に驚きつつも、どう答えようか少し迷った。「今はいないよ」と答えた後、言葉が喉に詰まる。彼女がどう思っているのか、何を感じているのかが気になり、次の言葉を選ぶのに慎重になった。そして、「あなたは?」と尋ね返していた。自分の言葉に少し緊張が走るのを感じながら、Linがどんな答えを返してくるのかを待った。彼女の答えを聞くことで、この距離感がどう変わるのか、その瞬間に敏感になっているのを感じた。
「しばらくいないわ。今はカメラが彼氏かな?」とLinは冗談めかして言った。その軽い調子に、私は思わず微笑んだが、彼女の目の奥にはどこか笑いが届いていないように感じた。口元は確かに笑っているのに、その澄んだ瞳の中には、何か別の感情が隠されているような気がした。Linの目は、深く澄んでいて、そこに映るものすべてを見通すような強さがある。その視線に引き込まれると、心の奥まで観察されているかのように感じ、胸が少し高鳴った。Linはこの目で世界を捉え、その視点を写真に落とし込んでいるのだろう。彼女の眼差しは、ただ物を見るだけではなく、その先にある本質や感情までも見透かしているように思えた。
この目とカメラのレンズが一直線につながって、あの力強くも美しい写真が生まれるのだろうか?、そう考えると、彼女がカメラを通してどのように世界を見ているのかが、今までよりも深く理解できた気がした。Linが何を感じ、どういう視点で世界を捉えているのか、それが彼女の作品に映し出されるその瞬間に、少しだけ触れてみたい、と思った。
バスはほぼ定刻通りにターミナルに到着した。窓の外に広がる風景は、想像していたのとは違い、意外と都会的で活気に満ちていた。ターミナルの周りは人で溢れ、車の音や雑踏が途切れることなく続いている。もっと静かなビーチサイドを想像していたので、少し意外な印象だった。
Linは撮影のために準備を整え、私たちはしばらく別行動することになった。彼女は大きなバックパックを軽やかに背負い、プロとしての真剣な表情を浮かべながら撮影に向かっていく。私は彼女の背中を見送りながら、一時間ほどの別れであるはずなのに、心の中では、まるで永遠の別れのように感じてしまう自分がいた。なぜこんな気持ちになるのだろう。少し寂しさを感じつつも、私はショッピングセンターに向かうことにした。
ショッピングセンターに着くと、賑やかな空気に包み込まれた。多くの人々が行き交う中、自分が孤独であることに気づくが、水着売り場を探し、店内を歩くうちに、次第にその感覚は薄れていった。
水着売り場にたどり着くと、たくさんの色やデザインが並んでいる。鮮やかな色のビキニやシックなデザインのもの。いくつか手に取って鏡の前で合わせてみるが、どうしても自分の体型が気になってしまう。Linのスタイルを思い出し、彼女の引き締まった体と比べてしまう自分がいた。あんなに健康的で美しい彼女に対して、私は少しでも体のラインが目立たない水着を選んだほうがいいのではないかと考え始めた。だが、その考えが一瞬で馬鹿らしく思えてきた。ここまで来て、何を恐れているのだろう?自分の体型や姿に自信を持てない自分に、どこかで小さな苛立ちを覚えた。それに気づくと、心が少し軽くなり、何かを乗り越えたような感覚が広がった。思い切って、黒のビキニを手に取った。シンプルで、それでいてどこか力強さを感じさせるデザイン。これが今の私にはふさわしいと感じた。そして、この選択が、自分の内面に対する何かを変える瞬間であるようにも思えた。
ショッピングセンター内を何となくぶらぶらしていると、スマートフォンが振動した。画面を見るとLinからのメッセージだった。「撮影が終わったから、今そっちに向かっている」と書かれている。その瞬間、なぜか胸の奥が温かくなり、ほっとした気持ちが湧き上がった。彼女が終わるタイミングをきちんと知らせてくれることが、私にとっては大切にされているような感覚をもたらした。
ショッピングセンターの入り口で30分後に会うことにした。そういえば、Linは時間に対してきっちりしていることに感心した。過去にアジアのいろんな国で仕事をしたときのことが頭をよぎる。打ち合わせや会議で何度も遅刻されたり、約束の時間が曖昧になったりすることが少なくなかった。もちろん、それはその国々の文化的な背景もあるだろうけれど、時にはその「ゆるさ」に苛立つこともあった。それに対して、Linはそんな曖昧さがなく、プロフェッショナルとしての意識が高いのが一目でわかる。彼女は常に約束の時間に正確で、決して遅れたり曖昧にしたりすることがなかった。そこには相手への敬意や思いやりがあるように感じられた。そんな彼女の姿勢が、安心感を与えてくれていることを、改めて実感する。
「まずはランチにしましょう」とLinが微笑む。その一言に、ようやく今朝からまともに食事をしていないことを思い出した。朝はコーヒーだけ、バスの中では少しお菓子を食べただけだったことに気づく。Linと一緒に近くのタイレストランに足を運ぶことにした。
店内は暑い外とは違って涼しく、居心地の良い雰囲気に包まれていた。私たちは向かい合って席に座り、メニューを開いた。Linはすぐにトムヤムクンを注文したので、同じものを頼むことにする。スパイシーで酸味のあるスープが、この暑さの中で食欲をそそるに違いないと思った。料理が運ばれてくるまでの間、Linの顔をちらりと見た。彼女の額にうっすらと汗が浮かんでいるのが見える。もしかして、時間を守るために急いで来てくれたのだろうか、と考えた。その想像が心に浮かぶと、なぜか嬉しさがこみ上げてきた。食事が運ばれてきて、トムヤムクンの香りがテーブルに広がる。二人でスープを口に運びながら、会話は流れていった。Linが「そういえば」と言って、少し考えるような顔をした。「もし明日も予定がなければ、今日はこのままここに泊まらない?」と。
その言葉に一瞬、心が揺れた。Linの言葉は唐突で、驚いたけれど、その率直さとまっすぐな目に、言葉を失ってしまった。彼女の強引さというよりも、その勢いに圧倒されて、即座に返事をする余裕がなかった。思考が追いつかないまま、今夜も、そして明日の朝も彼女と一緒に過ごせることへの喜びが込み上げ、ためらうことなく「泊まりたい」と答えた。口に出してしまった自分に驚きながらも、その言葉が自分の本心であることを感じる。
しかしその一方で、頭の中ではつい不必要な想像が働いてしまう。部屋は一緒なのだろうか?ベッドがひとつしかなかったらどうしよう?そんな些細なことが、心の隅で小さな不安となって広がり、少しだけドキドキしている自分がいた。でも、その想像もどこか心地よいもので、Linと二人で過ごすこれからの時間が楽しみで仕方なかった。Linはその返事を聞くと、スマートフォンを手に取り、すぐに予約の手続きを始めた。そんな姿を眺めていると、彼女がいつも事前にすべてを計画し、準備してくれていることに改めて感謝の気持ちが湧いた。「予約できたわ」とLinはにっこりと微笑みながら言った。「ビーチのそばにある小さなホテルだけど、清潔そうだし、プールもあるの。きっと気に入ると思うよ」と続けた。
そういえば、昨日のディナーや今日のバス代も、すべて彼女が支払ってくれていたことを思い出した。Linが細やかな気遣いをしてくれていることは嬉しいが、ずっと頼りきりなのは心苦しかった。これ以上、彼女にばかり負担をかけるわけにはいかない。今夜の宿泊費とディナーは、私が支払わなきゃと心に決めた。
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