わたしが彼女を愛した理由 3 バンコク出張編
昼食を終えてLinと別れた後、頭の中はずっとLinのことを考えていた。彼女の笑顔、穏やかな声、そして自然体なその姿。どうしてこんなに彼女のことが気になるのだろう。同時に夜の懇親会のことが頭をよぎる。チームと合流して会話を楽しむのもいいけれど、正直今はそれよりもLinのことが気になって仕方がない。もっと彼女と話がしたい。もっと彼女のことを知りたい。そう思っている自分に気づいて、少し驚く。これまでの私なら、女性にこんな感情を抱くなんて考えもしなかった。
思い切ってスマートフォンを取り出し、Linにメッセージを送ることにした。彼女を誘うのは少し怖いけれど、仕事の話を口実にすれば自然に見えるはずだ。
「今日は会社の懇親会があるんだけど、もし良ければ来ない?写真の話も聞けたら嬉しいなと思って。」
送信ボタンを押すと、胸が高鳴った。周りの音や人々の話し声が耳に入ってくるが、すっかりLinの返事を待つことに気持ちが集中していた。スマートフォンを見つめ、何度も通知を確認してしまう自分に、焦りが広がる。
しばらくして、スマートフォンが震えた。Linからのメッセージが表示される。
「今日はちょっと難しいかな。でも、明日の夕方なら時間があるよ。」
その一言に、胸の奥が静かに沈んだ。断られたことに、やはり少しショックを感じる。でも、明日の提案があるということは、完全に避けられているわけではない。むしろ、彼女は一緒に過ごす時間を大切にしたいと思ってくれたのかもしれない。二人きりで会う方が、もっと自然だと考えたのだろうか。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。それでも、頭の片隅にはまだ不安が残っていた。彼女は別の誰かと会うのかもしれない。もしかしたら私と会うことにためらいがあったのだろうか。けれど、明日会う約束があるというだけで、少しだけ救われた気がする。彼女がどうして私の中でこんなにも特別な存在になりつつあるのか、その理由を探ろうとする自分がいる。そして、明日の再会を期待している自分もまた、そこにいた。
懇親会が始まると、大きな安堵感に包まれた。長い準備期間と緊張の中で迎えた今日の発表が無事に終わり、やっと肩の力が抜けた気がする。チームやタイのパートナーと一緒に懇親会のテーブルに着くと、心の奥からじわじわと達成感が広がってきた。みんなもリラックスしている。ワインのボトルが次々と開けられ、料理がテーブルに並ぶ。今日の成功を振り返りながら、笑い声があふれる。笑顔で会話に加わり、久しぶりに緊張から解放された気分を味わっていた。
「今日は本当にお疲れさま!プレゼン、最高だったね」とチームのメンバーが声をかけてくれる。その言葉に頷きながら、再びLinのことを消し去ろうと努める。今は仕事が終わり、チームとの時間を楽しむべきだ。箸を手に取り、料理の香りや食感を味わう。目の前にはチームの仲間たちがいて、みんなが和やかに話をしている。懇親会の温かな雰囲気に包まれるうちに、少しずつLinのことを頭から追い出そうとしていた。
懇親会は予定より早めにお開きとなった。明日も展示会が続くため、みんな早めに休息を取ることを優先したのだ。食事も会話も十分に楽しめたが、どこかほっとした気持ちでタクシーに乗り込んだ。バンコクの夜景を眺めながら、心の中に小さな違和感が浮かび上がる。明日から、一人だけ休みだ。他のみんなはまだ展示会が続く。そんな状況に、少しだけ罪悪感が湧いてきた。でも、すぐにその気持ちを打ち消そうとする。今日のプレゼンは成功だったし、準備にも力を注いできた。十分に貢献してきたのだから、これ以上自分を責める必要はない。
車がホテルに到着する頃には、気持ちも少し落ち着いていた。明日からの時間をどう過ごすか、ふと頭に浮かんだLinとの約束を思い出しながら、ホテルのエントランスに視線を向けた。タクシーがホテルの前に停まると、ため息をついて車を降りた。展示会の懇親会が終わり、心身ともに少し落ち着いたはずだったのに、ロビーを通り過ぎてエレベーターに向かう途中で、急に心が重くなった。これから一人で部屋に戻ることを考えると、何とも言えない寂しさが押し寄せてくる。暗い部屋で一人過ごすことが、怖いというか、ただひたすら孤独に感じた。エレベーターのボタンを押しかけた手を止め、ふと違う方向を見た。ロビーの奥にあるバーが目に入った。部屋に戻りたくない。今は少しでも誰かと一緒の空間にいたい。
バーの落ち着いた照明と音楽が心地よく、何か温かいものが体にしみわたるような感覚がした。カウンターに腰掛けて、メニューを手に取る。明日からどう過ごすのか、ふと頭をよぎった。そういえば、帰国までの予定を何も立てていないことに気づいた。今日のプレゼンに全力を注ぎ込みすぎて、その後のことを全く考えていなかった。明日、Linと会うのは夕方。それまでの時間をどうしよう。バンコクにはまだ見ていない場所がたくさんある。観光を楽しむのもいいし、ゆっくり過ごすのも悪くない。でも、今はその予定を立てる気持ちの余裕すらない。目の前のグラスのウイスキーを一口飲むと、少しだけ気持ちがほぐれてきた。とりあえず、明日は朝から何か特別なことをするつもりはない。時間があるのだから、自然体で過ごせばいい。そう考えながら、少しずつ明日への期待を胸に膨らませ始めた。ウイスキーを一口、また一口とゆっくり飲み干すと、疲れが一気に押し寄せてきた。今日がどれだけ緊張と集中の連続だったのか、今になってやっと体が実感しているようだった。静かにグラスをカウンターに置き、バーテンダーに軽く頷いて席を立った。
部屋に戻ると、ベッドがやけに心地よさそうに見えた。このまま、何もせずに寝てしまいたい気分だったけれど、せめてメイクだけは落とそうと、バスルームへ向かった。鏡の前で顔を洗うと、昨日とは違う自分がそこに映っていた。少しだけ落ち着いた表情になっていることに気づく。お酒が効いているのか、それともプレゼンが終わった安堵感からかは分からない。タオルで顔を拭き、ホテルのパジャマに着替える。ベッドに潜り込むと、ふわりと体が包まれるような感覚が心地よかった。明日からは仕事の緊張から解放される。そう思いながら、目を閉じた。今日はこのまま、ゆっくり眠れそうだ。
翌朝、目を覚ますと時計はすでに8時を過ぎていた。カーテン越しに差し込む朝の光が部屋を淡く照らし、しばらくそのままベッドに横たわったままでいた。こんなに長く眠ったのはいつぶりだろう。体は心地よく重く、昨日の緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。シャワーを浴びずに眠ってしまったことを思い出し、バスルームへ向かった。顔を洗いながら、今日の予定を思い返す。今日はLinと夕方に会う予定がある。そういえば、夕方ということだけを決めて、場所も時間も決めていなかった。
朝食をとりにエレベーターでロビーに降り、ホテルのオープンエアーのレストランへ向かう。朝の澄んだ空気が心地よく、テラス席に座ると、植物の緑が目に入る。コーヒーを注文し、トーストとスクランブルエッグを頼んだ。周りでは、観光客やビジネスマンが思い思いの朝を楽しんでいる。タイ語や英語の会話が微かに耳に届き、異国の空気を感じる。コーヒーの香りが漂い、カップを両手で包み込むようにして一口飲む。バンコクの喧騒の中にありながら、このレストランの一角はどこか静かで、穏やかな時間が流れているようだ。こうしたホテルの朝食メニューは、世界中どこでも似ている。トーストとスクランブルエッグ、コーヒー。それが不思議と安心感を与えてくれる。
朝食を終えて部屋に戻ると、心が少し弾んでいる自分に気づいた。今日のLinとの再会が楽しみで、どこか落ち着かない。ワンピースのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面に未読メッセージの通知が光っていた。Linからだった。胸が高鳴るのを感じ、指が素早くスマートフォンの画面をタップしていた。
「夕方の予定だけど、16時に迎えに行くわ。泊まっているホテル教えて。夕食も一緒にしましょう。」
そのメッセージを目にした瞬間、心臓が一気に鼓動を速めた。まるで、夕食も一緒にできたらいいなと思っていたことを、Linが見透かしていたかのような内容だった。何も言わずとも、彼女はもうすでに私の考えを読んでいるようだ。その思いが、心の奥深くまでじんわりと広がっていく。Linが迎えに来る。夕食も一緒に過ごせる。それを思うと、頬が緩み、嬉しさが体の中に満ちていく。
Linからのメッセージを読んで、胸が高鳴る感覚がしばらく続いていた。16時に迎えに来る。そして夕食も一緒に…。その言葉を反芻しながら、ふと、Linに会うために特別な服を着たいという思いが湧き上がった。普段の私ではない、少し違う自分を見せたい。まるで中学生の頃、初めてのデートを控えたときのような浮かれた気持ちだ。「そうだ、午前中に新しい洋服を買いに行こう」、すぐにスマートフォンを手に取り、近くに良さそうなショッピングモールがないかを調べ始めた。すぐに、大きなショッピングモールがタクシーで行ける距離にあることがわかった。少し高級な店が多そうだが、それも悪くない。
ホテルの玄関を出ると、ベルボーイに声をかけた。スマートフォンでショッピングモールの場所を見せると、彼は親切にBTSというスカイトレインの方がタクシーよりも早く着くと教えてくれた。駅までは少し歩くが、今のところ日差しも強くないし、それも悪くない。日焼け止めが残り少ないことを思い出し、ショッピングモールで一緒に買おうと決めた。
歩きながら、活気のあるバンコクの街並みを感じる。ここでは、クラクションの音が絶えず響いていて、道路もどこか荒々しい。段差や凹凸が多く、完璧に整備された東京のそれとは対照的だ。東京は、こうして比べてみると、本当に静かな町なんだと改めて気づかされる。駅まではおよそ5分。思っていたよりも早く着いた。BTSの駅は清潔感があり、初めて来た場所でも安心できる雰囲気だ。自動販売機でチケットを買い、行き先を確認する。東京ほど複雑ではなく、教えてもらったサイアム駅までは迷うことはなさそうだ。
電車はすぐにやってきた。ラッシュの時間帯ではないらしく、車内は広々としていて静かだ。高架橋を走るこの電車は、東京のモノレールに少し似た感覚を覚える。窓から見える景色も、バンコクの空を背景に新鮮だったが、あっという間にサイアム駅に到着した。
サイアム駅を降りると、モールは駅直結で、迷うことはなかった。むしろ、その規模に圧倒される。どこまでも広がっているかのようなフロア、天井まで高くそびえるガラス張りの壁が、空間に開放感を与えている。新宿伊勢丹の洗練された雰囲気とも違うし、イオンモールのような親しみやすさもない。豪華でいてどこか異国的な、この巨大なモールは、非日常的な空間だ。
足を踏み入れると、平日だというのに多くの人が行き交っている。観光客や地元の人々が入り混じり、活気に満ちた雰囲気が流れている。奥には、水族館があるらしい。ショッピングだけでなく、レジャーとしても楽しめる場所なのだろう。目の前に広がるこのモールのスケールに少し圧倒されつつも、どこか冒険心をくすぐられていた。しばらく、ぶらぶらと歩いていると、たくさんのブランド店やセレクトショップが目に入る。どんな服を選べばいいのか、頭の中で考え始める。Linに会うのだから、特別な服を選びたい。でも、それがどんなスタイルであればいいのか…。少し悩みながらも、ワクワクとした気持ちが心の中に広がっていく。こんな風にファッションに悩むのは、久しぶりだ。
しばらく歩いていると、目に留まったのは、タイのヴィンテージ風のショップ。店の前には木製のディスプレイが並び、店内はどこか落ち着いた照明に包まれている。なんとなく惹かれるようにして店の中へ足を踏み入れた。そこで目に留まったのが、ネイビーのワンピース。ぱっと見はシンプルだが、光の加減で薄い花柄が浮かび上がる繊細なデザイン。まさに「隠された美しさ」とでも言える。そのワンピースを手に取り、近くにあった鏡の前で当ててみる。軽やかな生地が体にしっくりと馴染む感じがして、すぐに気に入った。試着してみると、体に自然にフィットし、華美すぎず、でも確かな存在感を持つ。この服なら、Linとの食事にぴったりだと思えた。そのまま、サンダルも一緒に選び、購入することに決めた。足元まで決めたことで、心の中に充実感が広がる。これで、今日の準備は完了だ。
気がつくと、時計はすでに13時近くを指していた。ショッピングに夢中になり、時間があっという間に過ぎていた。少しお腹が空いたので、フードコートに足を向ける。広々としたフードコートには、多くの日本のチェーン店が並んでいて、瞬間的に自分が日本にいるのかバンコクにいるのか分からなくなる。だが、せっかくタイにいるのだから、今日はタイらしいものを食べたい。パッタイとミネラルウォーターを選び、席に着いた。窓から差し込む柔らかな日差しと、周囲のざわめきが心地よく感じられる。目の前に広がるバンコクの賑やかな光景を見ながら、ここが異国であることを再認識する。今いるこの場所は、東京とは全く違うリズムで動いている。パッタイを一口食べると、想像以上の美味しさに驚いた。もちもちとした麺に、甘くて酸味のあるソースが絶妙に絡んでいる。フードコートとは思えないほどのクオリティだ。
食事を終えると、ドラッグストアに寄って日焼け止めを購入することにした。店内は明るく、品数も豊富だったが、迷うことなくいつも使っているブランドの商品を手に取った。日焼け止めを持って会計を済ませると、少し荷物が増えた。BTSに乗って帰ろうかと一瞬考えたが、手に持つ袋の多さに気づき、タクシーを使うことにした。
モールの入り口で手を挙げると、すぐにタクシーが止まった。運転手は若く、寡黙な雰囲気が漂っている。ホテル名を告げると、彼は無言で軽くうなずき、車をスムーズに発進させた。窓の外を眺めると、バンコクの道路はクラクションの音と雑多な車の流れで、混沌としている。だが、車内の空気は不思議なほど静かで落ち着いていた。周りの荒っぽい運転や、鳴り止まないクラクションの中でも、この運転手の穏やかな運転には安心感があった。
「おもてなしって、こういうことなのかもしれない…」
心の中でつぶやきながら、バンコクの街並みをぼんやりと眺め続けた。混沌とした街の中で感じる静けさ。これは、バンコクの持つ不思議な魅力なのだろうか。タクシーはあっという間にホテルへ到着し、料金と少しのチップを渡して車を降りた。今日の買い物と、この街のエネルギーを感じながら、これからの予定に心が少し弾む。
約束の時間まであと2時間。少し緊張を和らげるため、もう一度シャワーを浴びることにした。鏡に映る自分を見ながら、ムダ毛がないことを確認する。エステで脱毛しているから大丈夫なはずだが、念のためチェックしている自分に、ふと笑ってしまう。今日は女性と会うだけなのに、なぜこんなに念入りに準備をしているんだろう?自分は何を期待しているのかと、問いかけながらシャワーを浴びた。
シャワーを浴び終え、髪を乾かしながら少し落ち着きを取り戻した。さっき買ったネイビーのワンピースを着てみる。鏡の前に立つと、店で見た時より少し色が濃く見えたが、着心地は悪くない。サイズもぴったりだし、小さな胸もあまり気にならない。それを気にしている自分が可笑しくて、笑みがこぼれる。今日は男性とデートするわけではないのに、どうしてこんなに服装を気にしているんだろう?
メイクを整え、日焼け止めを塗り、髪をまとめると、ちょうど約束の10分前になっていた。ロビーに降りると、ソファに腰掛けてスマートフォンを手に取りLinからのメッセージは来ていないことを確認する。それにほっとしている自分がいた。キャンセルされたらどうしようという不安が、知らず知らずのうちに私の心を締めつけていたのだ。Linに会えることが、思った以上に大きな期待となっていることに気づく。
16時ぴったりに、Linがロビーに現れると、胸が一気に高鳴った。昨日のフォーマルな姿とは違い、カジュアルな服装だが、そのスタイルの良さと自然体の美しさは服で隠しきれていない。
「会えて嬉しいわ」とLinは柔らかな笑顔を浮かべながらワイをしてくれた。その笑顔に、一瞬戸惑いながらも、慌ててお辞儀を返す。「これで良かったのかな?」と思いつつも、心はLinの言葉に引き込まれていく。「また会えて嬉しいわ」と、彼女はまっすぐな瞳で見つめてくる。その視線に、一瞬息が詰まりそうになった「私も…」と返すのがやっとだった。Linの言葉や視線に、心は大きく揺れていた。
Linは、夕食に川沿いのレストランを予約してくれたという。まだ少し時間があるから、カフェでお茶をしようと提案された時、私は心の中で「Linと一緒なら、どこへ行ってもいい」と思いながらも、落ち着いた声で「ありがとう」と返事をした。
タクシーに乗り込むと、Linは昨日会えなかったことを申し訳なさそうに謝ってきた。写真の編集が間に合わなくて、今日の午後までに仕上げる必要があったらしい。その言葉に、どこか安心し、昨日少しでも疑ってしまった自分を恥じた。タクシーは、裏路地にある小さなカフェの前で止まった。カフェはこぢんまりとしていて、静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。Linはアイスティーを注文し、私も同じものを頼んだ。カフェの柔らかな空気とLinの存在が、緊張を少しずつほぐしていくように感じられた。
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