わたしが彼女を愛した理由 8 バンコク出張編
目を覚ますと、まだ薄暗い部屋の中に、昨夜の温もりがそっと漂っているのを感じる。身体に触れるシーツの冷たさと、微かに残る甘い香りが、昨日二人で過ごした瞬間がただの夢ではなかったことを、私にそっとささやいているかのようだった。
隣に寝息をたてるLinが目に映る。その姿が、予想以上に心の奥に深く響く。心は不思議なほど満たされ、穏やかでありながら、身体にはなおLinへの微かな欲望が宿っている。その滑らかな肌に触れてみたいと、下腹部が疼いている。しかし、彼女を起こしてしまうかもしれない、という躊躇がその動きを制する。Linの寝顔が、一瞬でも乱すことが罪深いかのように見つめ返しているようで、その神聖さに触れることが許されないような気がしていた。
しかし頭の中では冷静に、昨夜のことの重みを受け止めようとしている。今いるこの場所、そして隣にいるLinの存在は、これまで知っていたすべてとは異なる現実だ。Linの柔らかな肌の温もりも、微笑むときの優しさも、私が知っている「愛」や「友情」を超えていて、初めて知る感情に心が静かに揺れる。自分の中で何かが変わったのだと、深く静かに、けれど確かに理解し始めている自分がいる。
心は、目の前にある幸福をただそのまま受け入れたいと願っている。過去の自分が守ってきた境界線も、社会的な枠組みも、この瞬間には意味を失ってしまう。しかし、頭は冷静さを保とうとしている。これは一時の感情であって、この甘い幸福が続くことは難しいのではないか、その疑問がまた、新しい自分を受け入れる怖さにもつながっているのだ。
そんな心と頭の葛藤の中で、身体はまだLinの存在を感じようとしている。心が満たされているからこそ、身体はその温もりを手放したくないと思っている。頭は理性でその気持ちを抑えようとしつつも、この感情がただの幻想ではないことも理解している。心と頭、そして身体が微妙にずれ合いながらも、共に一つの感情の中にいる。自分の中にあるこの新しい愛情が、私をどこへ導いていくのか、その答えはまだ見えない。それでも、今だけは、この瞬間を噛み締めながら、この未知の感情に身を委ねていた。
窓から少しだけ光が差し込み、部屋を淡く照らしている。新しい朝の訪れが、昨日とは違う自分を照らし出すような気がしてならなかった。私はこのままの自分でいたいと思う一方で、Linと共に歩んでいける未来を描いてみたいとも思ってしまう。その未来が本当に訪れるかはわからないけれど、この感情を大切にしてみたい——そう思いながら、Linの寝顔を見つめる。
Linが目を覚ましたことに気づき、静かにその変化を見守った。彼女がゆっくりと顔をこちらに向け、微笑むと、私の胸には温かな感情が広がっていく。Linは何も言わずに、私の方へと身体を寄せてきた。その動きはあまりに柔らかく、親密で、まるで昨夜の行為が再び織り成されるかのように感じられる。私はその温もりを受け入れ、彼女と繋がり合うこの瞬間に心を静かに委ねた。Linの指先がそっと胸に触れ、そこから伝わるぬくもりが、私の心を深く、穏やかに包み込む。Linの触れる先から小さな波紋が広がり、頭の中のざわめきが少しずつ鎮まっていく。過去の思考や、冷静になろうとする理性さえも、今この瞬間のぬくもりの前ではぼんやりと霞んでいく。言葉など必要ない、ただこのままでいい――Linと一緒にいることが、私にとって何よりも大切なことだった。
Linの声が静かに響き、タイの言葉が私の耳に流れ込んできた。それは優しく、どこか夢見心地な響きを持っていて、彼女がまだ夢の中にいるのか、それとも自分自身に語りかけているのか、すぐには分からなかった。
「なんて言ってたの?」
彼女は目をぱちぱちと瞬かせ、こちらを見てから、あどけない笑顔を浮かべた。そして、軽く息を整えた後、私に向かってやさしく「おはよう」と言った。柔らかな微笑みが彼女の顔に浮かぶ。その笑顔には、温かさと優しさがあり、それを素直に受け入れるしかなかった。当然のように私たちの唇は触れ合っていた。深い呼吸が互いの胸の奥で響き合い、繊細なリズムが新しい鼓動を刻むように、静かに私たちの心を繋ぎ合わせていく。その唇の温かさが、昨日とはまた違う安らぎをもたらす。
唇が離れた後の静寂に、私は少し躊躇しながらLinを見つめた。その目には、深い理解と優しさが滲んでいるように見え、その視線に触れるたび、自分の心の奥に隠していたものが解き放たれるような気がした。息を整えながら、そっと口を開いた。
「初めてだったの…」
言葉は震え、思っていた以上に小さな声になってしまったが、Linはしっかりと聞き取ってくれた。彼女の微笑みが柔らかく深まり、何も言わず、ただその手が私の頬にそっと触れる。「大丈夫よ。」彼女は優しい声で答え、安心させるように軽く頷いてくれた。
自分の感情をどう伝えればいいのか、言葉を探しながらも、Linの優しい眼差しを感じていると、少しずつ心が解き放たれていく気がした。言葉にしようとしても、心と体と頭がそれぞれ違う方向を向いていて、混乱がまだ残っている。自分でも何が本当なのかわからない。でも、それを彼女には伝えたくて、ゆっくりと口を開いた。
「なんだか…心はとても満たされてるんだけど、頭は過去と未来を考えてるみたいで…全部がちぐはぐで、私自身もまだついていけてないの。」
Linは私を見つめ、でもすぐに理解したように微笑んでくれた。その微笑みは全てを包み込む温かさで満ちていて、私は自分が何も隠さなくてもいいと感じられる安心感に包まれた。
「そのままでいいのよ、あなたのペースで、ゆっくりでいい。」
彼女の言葉に、私の中で少しずつ何かが解けていくのを感じた。自分の心と体と頭がそれぞれ違う方向に向かっていることも、今の私にとって必要なプロセスなのだと、彼女の存在が教えてくれていた。
Linがバスタオルを体に巻き付け、柔らかく微笑んで「コーヒーを入れてくるね」と言い残し、ベッドから静かに離れた。朝の光が彼女の背中に当たり、その輪郭が光の中で一層艶めかしく浮かび上がる。何気ない仕草でありながら、その姿には昨夜の余韻がまだ漂い、視線が彼女の後ろ姿に引き寄せられる。背中から滑らかな曲線に沿って続く体のラインに目が離せず、心には微かな緊張感が走ると同時に、甘く残る余韻がじわりと広がる。朝の清々しさと、彼女の艶めかしさが一瞬に交わるその瞬間は、胸の奥に高揚感をもたらしてくる。布団を胸元まで引き寄せると、Linの残り香が微かに漂い、同時に彼女の温もりがまた心の奥で重なり合うのを感じた。
Linが戻ってくると、私はそっとタオルを手に取り体に巻き付けた。ベッドの上に並んで座ると、彼女が淹れてくれたコーヒーの香りが漂い、心地よい温かさが手元に伝わる。湯気の立ち上るカップに唇を近づけ、少しずつ飲むたびに、昨日から続く一連の出来事がゆっくりと胸の奥まで染み渡っていくようだ。まだ互いのぬくもりが残るこの空間で、何も言わずに過ごす静寂の中、ただ彼女と共にいることが、かけがえのないひとときに感じられる。
「今日は海に行けそうね」とLinが窓の外を見ながら独り言のように言う。窓から差し込む朝の光が部屋を包み、今日も暑くなりそうな気配を感じる。その言葉に、静かにうなずきながら、海への小さな期待が心に広がっていく。砂浜を歩く感覚や、潮風に吹かれるひととき──それらがなんとなく心地よく想像され、Linと過ごす新しい一日が始まるのが、楽しみになっていた。
水着に着替え、白いシャツを羽織ると、ビーチへ向かって歩き出した。柔らかな朝の光が肌に心地よく、街全体が穏やかに目を覚ましつつある様子が感じられる。バンコクの喧騒とは対照的に、この場所の朝は少し遅めに動き出すようだ。空気にはどこかゆとりがあり、人々の歩みもどこか穏やかだ。二人で静かに並んで歩くと、気持ちが解けていく。ビーチが近づくごとに、遠くから聞こえる波の音が次第に鮮明になり、心の奥が軽やかに弾むのを感じた。
メインビーチから少し離れた場所に着くと、まだ誰の気配も感じられなかった。波のリズムが響き渡る中、「まるでプライベートビーチみたいね」と呟く。Linは少し目を細めて「二人で独占しましょう」と微笑み、ゆっくりと波打ち際へ歩いていく。砂の上に彼女の足跡が小さく残り、それがすぐに消えてしまう様子に、自然の移ろいの儚さを感じた。Linの足跡を確かめるように足を踏み出すと、ひんやりとした海水が脚に触れる。そのたびに心が研ぎ澄まされる。朝の空気はまだ澄んでいて、かすかに潮の香りが漂い、風がそっと肌を撫でる。視線を上げると、青く広がる空と水平線がひと続きになり、目の前に果てしない世界が広がっている。耳に届く波音は穏やかで、どこか親しみを感じさせ、私の中に安心感をもたらしてくれる。五感を通して感じるこの瞬間の全てが、二人だけの特別な朝を確かに刻んでいた。
Linは軽やかな動きでシャツを脱ぎ、ふわりと砂の上に落とすと、サンダルを脱いで、波打ち際へ駆け出していった。陽光に照らされた彼女の姿が眩しく、微かにきらめく水滴が肌を滑り落ちるのが見える。髪が風に揺れ、彼女の笑顔が朝の光を反射して、まるで海そのものと溶け合うようだった。
足元から冷たく広がる海の中へと入っていき、Linの差し出した手をそっと握る。私たちの手のひらが触れ合い、波が静かに押し寄せては引いていく。その動きが心地よく、リズムに身を任せてしまう。波が寄せては返すたび、過去の恋愛の記憶が浮かんでは消える。いくつかの出会い、そして別れ。大切に思った男性たちがいて、楽しい時間を共に過ごした。その記憶は残っているし、その時々で「これが愛なんだ」と感じた瞬間も確かにあった。でも、それは恋愛への憧れだったのかもしれない。現実の相手に向けた感情というよりは、夢見がちな自分の想いに恋をしていた気さえする。いま、Linの手の温もりを感じながら、波の穏やかな揺れに包まれていると、初めて本当の愛に触れているような気がする。ここには何も飾らず、ただありのままの自分が広がっている。
波の間に静かに佇みながら、突然、言いようのない衝動が湧き上がる。Linの気持ちを、今ここで確かめたい──ただその思いだけが胸をいっぱいにしている。けれど、どんな言葉を使えばこの不安や期待を伝えられるのか、見当がつかない。口を開けば、軽々しいものに思われてしまうかもしれないし、無遠慮に彼女の心を試すような言葉に聞こえてしまうかもしれない。
彼女の笑顔に秘められた気持ち、その目の奥にある何かに手を伸ばしてみたい。けれど、何も言えないまま、彼女の手を握り続けるだけだ。波が私たちの足元で音もなく引いていくたび、言葉にならない想いが一層重みを増していく。胸の内で揺れるこの感情に名前をつけることができないまま、Linの手を握りしめることしかできなかった。
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