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就職氷河期が刻んだロスジェネ世代の構造的残酷さ~閉ざされた「入り口」が生んだ三重の不利~

僕はロスジェネ世代の末期に位置する。
日本において「ロストジェネレーション(ロスジェネ)世代」と呼ばれる人々は、1990年代から2000年代初頭にかけての就職氷河期に社会へ踏み出した層であり、その生涯の軌跡にはある種の構造的残酷さが刻まれていると言える。
僕の肌感覚では就職難の出口付近にいた僕らは「先輩の厳しすぎる現実」から脱却の糸口が見えた希望の年代と言える。

先輩たちの泣き顔と、強引に大学生を維持し続け、留年や院卒という形で残り続けるしかなかった歪みも見ていた。
また社会に出た後では、直近の先輩から1つ上の職位あたりに位置した彼らの悲壮感も目にしている。
ロスジェネ世代の出口にいた人間だからこそ、俯瞰して見えた「ロスジェネ世代」、つまり就職氷河期とは何だったのかを考えてみたい。

就職氷河期が生み出した3つの残酷な側面

バブル崩壊後の長期不況は企業の採用意欲を冷却させ、新卒一括採用を基盤とする日本的雇用慣行は、一度の「入り口」の失敗が生涯所得やキャリア形成に多大な影響を及ぼす構造をもたらした。
つまり「最初の失敗」がずっと転ぶきっかけになる構造にあったにも関わらず、強制的に転ばされた世代が「ロスジェネ世代」なのだ。

結果として、この世代は経済的、社会的、心理的な側面で多重的な不利を背負い続けている。

一言で表するのなら、「やってられない」ではなかろうか。

第一に、経済的側面における残酷さである。

ロスジェネ世代は、多くが非正規雇用や派遣、アルバイトに依存せざるを得なかった。
僕は新卒の就職においてパチ屋という「誰でも入れる代表格」のような業界に入った。そんな場所でも少し上の氷河期真っ只中だった先輩の中には京大、東大、早稲田、慶応を含む有名大学出身者が存在していた。

バブル期以前の世代が大企業の正社員として社会の恩恵を享受し、企業内教育や終身雇用、年功序列による安定を得ていたのに対し、ロスジェネ世代は職業キャリアの初期段階で正規の「入り口」を閉ざされてしまったのだ。

言っておくが、パチ屋は「履歴書に書いただけで不利になる」と言われる職種の一つで、実際にそれが理由で面接をしてもらえないケースはとても多かった。
よってパチ屋からの転職はゴリブラック営業か横滑り別パチ屋なんて言われたものだ。

結果、職務経験やスキル獲得の機会が乏しく、生涯賃金は低水準に留まり、住宅購入や家庭形成、資産形成の面でも大きな遅れや困難が顕在化した。
これは、単に一時期の不況による影響ではなく、長期的に経済的自立を阻害する「蓄積された不利」を意味する。

第二に、社会的側面の残酷さがある。

日本社会は当時依然として学歴社会的な面が強く、新卒一括採用の文化を支える要素として、若年期に得られなかった地位や経験を後から挽回することは困難な状況にある。

ロスジェネ世代は、「自らが能力不足で不遇に甘んじている」という社会的な視線を浴びがちであり、こうした「自己責任」論的風土は、構造的問題を個人の努力不足へすり替えた。

「つまるところ”別の選択も出来たのだから、お前が悪い”」という死人に鞭打つような論調である。
現実に、今も中年層にはそれが浴びせかけられているし、僕自身も「そうだ」と言ってしまう部分はある。
しかしながら、現実には構造的な欠陥に押し込まれてしまった現実は否めないのだ。

結果的に、これらの人々は社会的承認を得る機会に乏しく、自己肯定感の低下や孤立化を招いた。
社会保障制度も、彼らを十分に救済する設計とはなっておらず、非正規雇用のまま中高年期に突入すれば、雇用の不安定化や将来不安がますます深刻化する。

第三に、心理的側面での影響も看過できない。

ロスジェネ世代が青春期から青年期にかけて直面したのは、「努力しても報われない」「正当な評価機会がない」という理不尽な社会構造であった。

新卒カードを有効活用できず、キャリアが軌道に乗らないまま時間が経過する中で、自らを磨き直すための機会や気持ちは損なわれていく。
「どうにもならない」
「流させて生きるしかない」
を数十年続けたことによる弊害が著しいのは言うまでもないだろう。

周囲には似た境遇の仲間もいるが、彼らが励まし合うことはできても、抜本的な問題解決には至っていない。
「俺等、キツかったよな」と管を巻くのが関の山である。

結果として、長期的なフラストレーションや疎外感を抱え、自尊感情の低下や精神的ストレスを蓄積してしまう。

さらなる残酷さは、これらが単に「一世代だけの不運」ではなく、社会全体の構造的欠陥を露呈している点である。

本来であれば、経済成長局面で豊かさを享受した上の世代が、次世代へ環境整備やセーフティネットの強化を行うべきだった。
しかし、規制緩和や市場原理主義的な政策転換は、若年層へのしわ寄せを強化し、結果としてロスジェネ世代が「見捨てられた」感覚を抱く状況を固定化したのだ。

実際に、過去20年の政策で、この層が明確に救われるものがあっただろうか。少しだけ思いを巡らせて欲しい。
我慢を強いられ、いずれ良くなると語り続けられた結果、部屋の隅で暴力に耐える子どものような姿になってしまった中年は多い。

言わば、無力感である。

この構造は、やがて日本社会全体の少子化問題、消費低迷、社会保障負担の不均衡といった形で跳ね返り、社会全体に深刻な歪みを生んでいる。

要するに、日本におけるロスジェネ世代が直面している残酷さは、単なる就職難という表層的な問題にとどまらない。

就労機会の制約による経済的損失、社会の評価基準が硬直的であるがゆえの社会的孤立、そして未来への展望を奪われたことによる心理的苦悩が、三重の形で彼らを追い詰めている。

しかもこの問題は、個々人の努力や適応によって容易には打開できない構造問題であり、企業と社会、政治が一体となって制度改革と支援策を講じなければ解消は難しい。

このような構図こそが、ロスジェネ世代が背負わされている構造的残酷さである。
彼らは、一度失われた正規雇用のチャンスを、長期にわたって取り戻せないまま、社会的地位と経済的余裕を得る機会を剥奪されてしまったのだ。

日本社会がこの問題の根底を直視し、抜本的な矯正措置を取らない限り、ロスジェネ世代が抱える不公平と痛苦は、時を経ても拭い去られず、国全体の活力と創造性をも蝕み続けるであろう。

但し、それで終わってはさすがに夢も希望もない。
次回はロスジェネ世代が生み出した別角度の価値観について語りたい。

炸裂する四十代がなぜ「圧倒的強者」となっているのか。
2極化しているロスジェネ世代のあり方は、それ以降の若者に価値観の多様性という形で引き継がれているのだ。

<ロスジェネ世代は猫山課長のnoteを読みましょう>

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