【雑感】石破新総裁は「裏切者」なのか?
一昨日27日の自民党総裁選投開票で、石破茂氏が第28代の総裁に選ばれた。ご当人にとっては5回目の挑戦にして初めて勝ち取れた地位である。
過去の総裁選では、党員票で他の候補者を上回ったものの、国会議員票で逆転され敗退するケースが続いたが、今回はその逆のケースになった。その背景には、裏金に代表される数々の不祥事による信頼失墜への危機感に加え、派閥による締め付けが事実上解消されたことが大きく作用したようだ。
石破氏を巡っては、いまなお「裏切者」というレッテルが貼られているようで、なかでも派閥を率いる重鎮議員には、決して許すことのできない所業として映っているように思える。その表れが、総裁に選ばれた後に行った就任あいさつでの壇上の麻生氏の不遜な態度だったのかもしれない。ご本人にそんな気がなければお気の毒と言わざるを得ないが、第三者にはそのように映ってしまったのは事実だろう。
石破氏が「裏切者」と目されるに至った原因として、1993年の細川内閣誕生で自民党が下野した際の離党問題とその後の復党や、初入閣後に『閣僚は派閥に属するべきではない』という理由で恩義のある伊吹派を離脱したことに加え、麻生内閣の閣僚であったにもかかわらず”麻生おろし”に加担したことなどが取りざたされている。もちろん表裏が激しい政治の世界では、マスコミ上で語られることを鵜呑みにはできないが、ネット上では今なお「石破氏は裏切り者!」と非難する声が行き交っている。
さて、こうした過去の一連の石破氏の行為をもって「裏切者」と断定することは果たして正しい評価なのだろうか? そもそも、裏切者という言葉には長く続いた武家社会の価値観が今なお強く息づいているように思えてならない。
武家社会は言うまでもなく軍事上の価値観が下敷きになっており、「お家のために身命をなげうつ」や「滅私奉公」などといった行動様式が重んじられる社会である。軍事行動では指揮官の命令のもとで統制の取れた行動が必須であって、命令に従わない行動をとればそれは味方への裏切りであり、敗退にも直結する。昔、『私は貝になりたい』という映画が波紋を呼んだが、この映画で絞首刑に処せられたB級戦犯も、上官の命令に従わなかったらその場で裏切り者として処罰されていたことだろう。21世紀の今日でも、ロシア軍兵士の中にはウクライナ侵攻に疑問を抱きつつも、裏切者として処罰されるのを恐れて銃を向けるものも多いようだ。このように、裏切者という言葉には一糸乱れぬ行動が要求される軍事行動に端を発していると考えられる。
さて、現代社会でも裏切者という烙印は、組織文化の中でかなり多く残っているようだ。組織命令に著しく背いた者などに押される烙印である。一旦そうした烙印が押されるとその後の処遇にも大きく影響し、下手をすると解雇の憂き目に遭うことすらある。予断を持って語ることは慎まねばならないが、兵庫県庁で知事のパワハラを内部告発した局長が自殺にまで追い込まれたのは、裏切者という烙印に耐えかねたのが一因だったのかもしれない。
かつて、田中角栄氏が目黒御殿にある池の鯉に餌をやりながら「なかには元気のいい奴(鯉)もいて池から飛び出すのもいる。干乾しになるだけなのに」と記者に語ったそうだが、この言葉は組織の論理を実によく表している。狭い池の中で命を長らえるには、毎日決まった時間に撒かれる餌を待ちつつひたすら回遊を続けるこそ唯一の途である。こうした価値観は、昭和・平成と続く組織文化を象徴していたようにも感じる。たとえどのような異論があろうと、自分を押し殺して上司の指示に「はい」と答える。それが、武家社会に端を発し昭和の高度成長を支えるまでに成熟した日本人の価値観だったようだ。
では、令和の今日ではそうした価値観は過去の遺物になったのか?と問われると、必ずしもそうでないようだ。むしろ、組織で生き抜くうえでの基本的な行動様式として、今なお厳然として生き残っているように感じる。ロシアの公共放送の生放送中に、戦争反対の垂れ幕を掲げスタジオに飛び込んだキャスターがいたが、こうしたことは間違っても日本では起こらないだろう。予定調和の原則は、テレビ局に留まらず様々な組織における原理原則として今でも息づいており、これが秩序維持の上で欠かせない要件だと信じる向きもある。
その結果、マスコミは記者クラブから締め出されることを恐れ真正面から正論をぶつけることを避けるようになり、キャスターや評論家は局から締め出されないように発言には周到な注意を払う。同様の行動様式は一般企業でも横行しているようで、ビッグモーターをめぐる不祥事や検査データの改ざんなどはその極端な現れではないだろうか。
このような行動様式は、出処進退を司る立場にいる者の力を否応なく強大にし、権力という言葉すら生まれてくる。権力者は周囲から様々な忖度を受ける対象となり、そうこうしているうちに裸の王様のように物事の正常な判断すら困難になり、当然ながらそうした組織は破綻の危機に立たされてしまう危険すら孕む。
Countervailing Powerとは組織を維持する上で欠かせないとされる拮抗力を指す言葉だが、これを活かすには恐れずに立場を超えて冷静な議論を重ねていくしかない。対立者を裏切者として切り捨ててしまえば、議論はそこでストップしてしまう。まさに「問答無用」の発想である。こうした発想が令和の今でも色濃く残っており、それが長期にわたる我が国産業の衰退の一因にもつながっているように思えてしまう。
石破茂氏へのもう一つの批判材料として「彼の話は論理的過ぎて長すぎる」ということも指摘されているようだ。総裁選では候補者の多くがYou-Tubeを使って発信したが、キャッチコピーのような短いフレーズが多数を占める中で、石破氏のYou-Tubeでは異常に長く切々とした語り口は際立っていた。それは、彼の立候補に向けた記者会見でも見て取れる。しかし、自らの政策を相手に理解してもらうには、こうした丁寧な説明は不可欠であると私は感じている。テロップを見ることなく切々と主張を述べることは、相手の理解と共感を得る上で不可欠な対応だと考える。
日本人は長々とした議論を嫌う傾向もあるが、そこには予定調和や相手の意向を斟酌することが大人の美徳であると考える意識が根強く残っているように思える。しかしそれでは真の理解も共感も得られず、共に手を携えて前進していこうとするモチベーションも醸成されようがない。自らの考えをしっかり持つには、知識や経験から得られた情報を整理し、正しい判断ができるだけの日々の自己研鑽は欠かせないが、他人の考えに流されてばかりでは、そうした努力を持つ機会すら奪われてしまう。もちろん、過去に下した判断が誤っていれば訂正すればいいし、それを容認する社会の寛容性も必要だろう。無謬性ばかりを重んじ、過去の言動に拘泥するあまり自他双方に対して嘘と言い訳で塗り固めたような社会は遠からず崩壊の道をたどることになる。
今回、立憲民主党でも論客で議論を厭わない野田佳彦氏が代表になった。石破新総裁と野田新代表との間で、明日の我が国に向けて真に建設的な議論が展開されることを期待してやまない。