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最後の参謀総長 梅津美次郎ーー帝国陸軍の後始末の人の終戦工作

 さて皆さま、太平洋戦争の最後の陸軍大臣はご存知でしょうか。
 そう、阿南惟幾大将です。
 では最後の参謀総長はご存知でしょうか?
 実はご存じないのではないでしょうか? 

 どうも徒華新書です。
 本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
 @adabanasinsyo
 本日は久保智樹がお送り致します。
 @adabana_kubo

 冒頭の写真は日本が連合国に降伏したミズーリ号の調印文書です。

 ミズーリ号で調印したのは最後の参謀総長だった梅津美治郎大将です。
 天皇の大命(天皇からの直々の命令)で44年に参謀総長に就任し、日本の終戦に苦心した将軍です。
 なぜ、天皇は彼を参謀総長に求めたのでしょうか?
 そして如何にして日本を終戦に導いたのでしょうか?

 本日は、そんな知られざる天皇の腹心、梅津美治郎のお話です。

 本日のお品書きです。


・師団長 梅津美治郎
ー第二師団はいつでも発動の態勢にありー

大義名分を説いて反乱行為を速やかに鎮圧すべし
第二師団はいつでも発動の態勢にあり
発:梅津美次郎中将

2・26事件の決起軍

 上記は1936年青年将校がクーデターを企て決起した2・26事件の直後に陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)に対して梅津美次郎が発した内容です。他の師団長が態度を決めかねる中、一も二もなく鎮圧を求め自ら出動の態勢を整えました
 
 この将軍は果たして何者だったのでしょうか。

 

梅津美治郎

 梅津美治郎(うめづよしじろう)。

 1882年生まれ。陸軍幼年学校、士官学校15期を7番目の成績で卒業。
 1904年に第一師団第一連隊に配属。
 時代は日露戦争の頃でありこの連隊の少尉として従軍。
 激戦の旅順攻略戦で負傷。一大決戦となった奉天会戦にも参加。

 1911年陸軍大学を首席で卒業。

 経歴を見ると陸軍の本流のエリート軍人です。

 時は陸軍激動の昭和期。
 陸軍は派閥政治の時代。
 皇道派と統制派が国防方針から国家の在り方まで争っていた。多くの軍人がなんらかの運動に関わっていました。
 
 だけれども梅津はそれから距離を取ります。
 「軍人は関与すべからず」という信念を持っていた為です。
 
 それは軍人勅諭の精神を体現していました。

 「世論に惑わず政治に拘わらず只々一途に己が本分に忠節を守れ」

 軍紀を確立するこの精神を梅津は大切にしていました。
 
 1931年満州事変が起きたとき梅津は少将に昇進していました。当時は陸軍参謀本部の総務部長の任にありました。彼の上司である今村均作戦課長と連絡を取り事変の「不拡大方針」で合意します。
 皇道派の重鎮、荒木貞夫を前にしてもその決意は揺るがなかった。しかし一人の部長の反対は無力でした。永田鉄山や東条英機たち陸軍の実務者の多数は事変を支持していて、遂に南陸軍大臣も折れて日本軍は事変の拡大に動くことになります。

 1934年梅津は中将に昇進して、支那駐屯軍司令官につきます。
 翌35年満州国と中国の間に緩衝地帯をつくる華北分離工作が始動し、「梅津=何応鉃協定」が締結されます。梅津の名を冠してこそいますが、梅津が東京に出張中に次席の酒井参謀総長がこの工作を進めました。陸海軍どころか外務省もこの方針に賛成の為に、梅津はしぶしぶ事後承認しました。

 この時期の梅津を見ると、己としては派閥政治を嫌い不拡大方針を取るも、周辺状況に翻弄され信念を通せなかった一人の軍人という印象を受けます。

 しかし、梅津は自らの手の届くところでは信念を貫きます。
 2・26事件が起きると決起軍に対して即座に鎮圧を主張し行動に出た。

  

・陸軍次官 梅津美治郎
ー2・26事件の粛清ー

所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。
2・26事件決起趣意書

 2・26事件。陸軍青年将校によるクーデター未遂。
 この未曾有の試みに対して政府は徹底した処分を下します。

 その陣頭に立ったのが梅津中将です。
 1936年4月梅津は陸軍省のナンバー2、陸軍次官の地位につきます。

 梅津を含む陸軍指導部の態度は断固たるものでした。

 決起した皇道派将校に好意的と目された7人の対象を予備役に送り陸軍人事を一新した。その後も皇道派に同情的であった3人をも大将を予備役に編入していった。
 
 この粛清は皇道派寄りの軍人からは統制派を味方したともいわれました。梅津は「新統制派」として、陸軍の2大派閥の片側の味方をしたいう議論もあります。人事においては梅津に次いで影響力があったのは統制派の武藤兵務局長だった点は無視できない事実です。

 人事の刷新と同時に、2・26事件の後始末として、事件当時発布された戒厳令を根拠に、即決・非公開、弁護人の無い特別軍事裁判を開き首謀者らを処刑しました。

 こうした果断な処置を取る梅津を心配する声もありました。

 宮中からはかつての相沢事件、軍内から皇道派の一掃を試みた永田鉄山が相沢中佐によって斬殺される事件、の二の舞になるのではと心配されていました。

 実際、下剋上の精神の強い中堅幕僚には、杉山元や板垣征四郎のような下の意見を唯々承認するロボットのような人物が好まれていて、確固たる合理的思考をする梅津の存在は疎ましい存在でした。

 陸軍内部の批判とは反対に元老や海軍からは絶大な信頼を寄せられれていました。

 例えば山本五十六次官(当時)をして、
 「陸軍では梅津が一番正しくて、しっかりしている」
 
と語ったと言われています。

 木戸内大臣も、
 「いろいろ非難があるようだけれども、やはり、一番しっかりしている。」
 
と評しました。
 
 近衛文麿も当初は「梅津はアカ(共産主義者)」との誹りを耳にして梅津のことを警戒していました。しかし一度会談すると印象もがらりと変わったようです。
 「一時間ばかり話してみたが、聞きしにまさる偉い将軍だね。政治的陰謀なんかやれる人じゃない。」と評価を一変させたといいます。

 しかし最後の近衛文麿の評価には議論があります。
 1937年の近衛内閣の成立した際には、近衛は梅津排除を狙ったとも言われています。理由は近衛のお気に入りの占い師に陸軍機密費を支払わなかった怨恨だからとも、アカとの疑惑を払しょくできなかったからともされています。とかくも、1938年梅津は陸軍次官から第一軍司令官に転出となりました。
 


関東軍司令官 梅津美治郎
ーノモンハンの後始末ー

「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ。」
昭和天皇

 1939年8月にナチスドイツがソ連と不可侵条約を締結しました。
 これによって日本政治は大きく動揺した。平沼内閣は「欧州情勢複雑怪奇」と言い残し退陣した。これによって阿部内閣が組閣された。

 この阿部内閣の陸軍大臣人事を巡って再び梅津の名が現れる。
 「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ。たとえ陸軍の三長官が議を決しても自分のところに持って来ても、自分にはこれを許す意思はない」と昭和天皇は組閣人事にご下命あそばされる。
 結局陸相人事は畑俊六大将となります。梅津を扱う本稿として注目に値するのは、この時、昭和天皇よりご下命があるほどに信望が厚かった点です。この信任は2・26事件やその後の粛軍における断固たる姿勢によるものだったのでしょう。

 では陸相人事から梅津が外れた理由は何だったのでしょうか。
 一つは侍従武官として内地にいた畑の方が前線の梅津より容易に人事異動できる点です。
 もう一つはノモンハン事件、現地軍によって中央の統制を外れ軍事行動が行われ敗北した事件、の後始末に梅津を当てるほかなかった点です。
 
 1939年5月から9月まで日本とソ連は満州における国境を巡り武力衝突します。戦況は日本に不利に推移しました。そのため9月7日大規模な更迭人事が行われる。植田謙吉関東軍司令官を筆頭に第六軍司令官や作戦参謀の服部や辻などがその対象となりました。

関東軍司令官時代の梅津大将

 この混乱を立て直すために梅津が関東軍司令官に就任しました。
 慣例に従えば、関東軍は最古参の陸軍大将が就任するポストであり、一中将がその任につくことは異例でした。実に20人もの人物を飛び越えての大抜擢の親補人事だった。そしてこの関東軍時代に梅津は大将になりました。
 次のような人物が求められていたから梅津が関東軍の司令官となりました。
 「ソ連と事を構えず思慮周密にして功名心に走らず、幕僚の言いなりにならない確固たる自己の信念を有する」
 適任だからこそ梅津を大臣にするのでなく関東軍司令官にすることが決まったのでした。
 
 ソ連との戦闘中に赴任し、関東軍の参謀達も更迭され、人事が一新されており、司令部は難しいかじ取りを迫られることとなった。9月10日に外務省を通じた停戦と和平交渉がはじまり、9月15日最終的に和平合意がまとまりました。係争中だった国境線についてソ連の主張を全面的に受け入れるものでした。

 梅津が関東軍司令官に着任してなすべきことは3つあった。
 ひとつは、打撃を受けた関東軍の再建。
 ついで、主敵たるソ連に対して備える。
 もうひとつが、関東軍が暴走しないように軍紀を回復する。
 
このどれも重大な任務でした。

 
 梅津が着任した当時関東軍は8個師団35万人の規模。
 1941年6月にドイツがソ連に宣戦布告し、独ソ戦が始まる、陸軍中央は関東軍の増強を始まります。中央は独ソ戦がドイツの有利に進めばソ連に宣戦布告をする計画でした。
 
 ただし梅津司令官は反対の立場を取ります。
 梅津が中央に送った文書では、次のように情勢判断を語ったという。
 「ドイツ軍の対ソ攻勢は、ドイツ首脳部が考えるように短期間に決定的勝利を得るのはむつかしい。長期戦になる。」
 一度ソ連と戦った経験のある将軍としての、冷徹な情勢判断に基づくものでした。陸軍中央がドイツの一時的な勝利に幻惑される中で正確な情勢判断であったことは後世の歴史が証明しています。

 ただし全く対ソ参戦に否定的ということではありませんでした。
 彼は対ソ参戦に絶対に反対というわけではなく同文書のなかで、
 「ドイツ側が言うように、もし短期間の打撃でソ連が内部的に崩壊するようなら、その時期になってから極東ソ連領を処理しても遅くはない。」
 という機会主義的な意見も述べていました。
 
 しかし梅津の分析とは裏腹に中央は1941年後半に関東軍特別演習(関特演)を開始します。50万人の動員が行われ関東軍は13個師団85万人規模まで拡大していきました。
 
 これだけの兵力を持った関東軍はしかし動かなかった。
 かつて見られたような独断専行による開戦準備などはなかったのです。

 ここで印象的な梅津の訓令を紹介します。

 「最後の開戦に関する国家意決定までには多くの場合があるべし。(中略)大命に基づかざる行動は断じてなかるべし。この点聖慮を悩まし奉ること絶対なきにつき、篤と了承ありたし。」
 このように皇軍として大命があれば命令に従って行動するが、しかし大命が絶対である。独断専行を戒めるものでした。ここにも己の本分に忠実な将軍の姿が見えてくる。
  
 結局、独ソ戦が始まっても極東ソ連軍の引き抜きは小規模でした。なにより連合国との太平洋戦争の勃発によって対ソ戦は行われませんでした。いずれにしろ独ソ戦は梅津の見通した通り長期戦となり中央の想定したソ連の衰退は訪れなかったのです。その意味でも対ソ戦への準備は準備だけに終わります。

 それどころか、太平洋戦争の戦局の悪化で関特演で増強された関東軍から逐次兵力が南方に引き抜かれます。最盛期には17個師団(うち2つは戦車師団)を数えた関東軍もその兵力を10個師団にまで落とし、練度も低下しました。
 梅津は歯抜けの櫛となっていく関東軍をそれでも練兵し続けました。


・参謀総長 梅津美治郎
ー如何にして終戦するかー

「予は対米戦争に当初から反対であったから、その参謀総長に就任することは本意ではない。その上既に戦は我に不利である。今更参謀総長として施すべき術もないであろうから、参謀総長になることは望まぬ。何とか辞退することは出来ぬだろうか。」

梅津美治郎大将

 7月17日東京より電話越しに参謀総長に就任することが伝えられます。このとき当の本人である梅津は上記のように池田関東軍参謀副長に漏らしている。では如何にしてこの人事は決まったのでしょうか。

 1944年7月7日サイパン島守備隊が玉砕し、この島が陥落します。
 前年に設定した「絶対国防圏」を喪失しました。
 国防圏構想の話は少し前の記事でお話ししました。

 1941年12月より始まった太平洋戦争は明らかに日本の劣勢に推移していきました。そして44年7月のサイパン陥落を受けて、重臣の圧力により、東条英機は首相と陸軍大臣と参謀総長の兼任を辞めることとなります。

 7月15日に東条は後任人事を後宮淳として天皇に内奏しました。

 この内奏に対して天皇から御下問があらせられました。
「もう少し大物を持ってきたいと思うが、部内がそれでよいというならそれでよかろう」と。

 陸士17期後宮淳より大物となると天皇は誰を念頭にしていたのだろうか。後宮大将より先任かつ大物と言えば、陸士12期の畑俊六(支那派遣軍)か陸士15期の梅津美治郎(関東軍司令官)のどちらかであったことは想像に難くないのです。参謀本部内でもこの二名を求める声があったと富永次官は振り返っている。
 
 またこの時期、梅津を警戒していた近衛でさえ木戸内大臣にあてた書簡で
 「御上に於かせられても御親任深しと承る」
 と天皇が梅津大将を信任していることを書き送っていることなどから、天皇の内心を知る重臣達にとって天皇が暗に梅津を陸相に就任を望んでいると推察できただろう。

 結果としては、異例のことに一度承認された内奏人事は取り下げられました。7月17日東条は改めて梅津の参謀総長親補を内奏します。翌18日に梅津は正式に参謀総長に就任します。そして冒頭の場面になるわけです。

 この18日東条英機首相は戦局の悪化の責任を取り辞任しました。小磯国昭陸軍大将に組閣の大命が下ります。

小磯内閣

 梅津の最初の仕事はまたもや人事でした。小磯国昭首相の下での陸軍大臣人事が問題となりました。三長官会議が開かれ、東条英機陸軍大臣、杉山元教育総監、梅津参謀総長の間で協議が行われます。この席で梅津は述べました。
 「この際は、東条大将が留任することは適当ではない、杉山元帥になってもらう外はない。そして東条大将は現役を去るべきである」

 これで人事は決しました。杉山大臣、梅津参謀総長体制が成立します。
 併せて東条大将は予備役となりました。

 さて、参謀総長になった梅津は戦局をどう見ていたのでしょうか。
 満州を離れる前に池田に語ったことには続きがあります。

 「戦局は我に不利である。この戦争を成るべく早く終結する必要がある。それには外交その他の手を打たねばなるまい。」

 梅津は戦況を眺めたとき、関特演のときと同様に、冷徹に現実を見つめ、もはや終戦が必要だとの決心の上で中央に戻ってきていたのでした。

 そんな梅津は参謀総長としての本分である作戦始動に関わります。 
 折しも戦局は悪化していたが、日本軍は有利な講和をするためにもアメリカに一撃を入れたいと考えていました。決戦はフィリピンのレイテ島と決めました。捷号作戦が発動されます。
 
 しかし天運は皇国の味方をしませんでした。海軍はレイテ沖で敗れ制海権、制空権は失われます。陸軍は戦車師団をも投入し決死の攻撃をかけたが玉砕しました。

 かくて一撃を与えた後に講和するという梅津の構想は失敗します。

 戦線は徐々に本土に近づいてきくる。硫黄島や沖縄では決死の戦闘が続いていました。

 戦局悪化を受けて政府はまたも再編が行われます。
  4月5日小磯首相は辞任。後任には鈴木貫太郎海軍大将が就任します。
 陸軍大臣人事は梅津の希望もあり阿南惟幾大将となります。


鈴木貫太郎内閣

 阿南の陸軍大臣就任は梅津が参謀総長就任以来求めていたことでした。東条を予備役にした三長官会議でも阿南を陸軍大臣の候補に挙げていた。

 阿南と梅津の関係は深く同じ大分出身、第一歩兵師団第一連隊で上官と部下でした。また次官時代の粛軍では一時期軍務局長を阿南が務め梅津を補佐した。
 阿南自身梅津を兄のように慕っており、上官としても尊敬していました。
 梅津の参謀総長に就任した際は、
 「梅津大将の栄典は誠に皇国の勝利、時局収拾のため慶賀に不堪る」
 と書き残しています。

 梅津にとって終戦のために阿南は代えがたい人物だったのです。
 これまで見てきたように梅津は部外からの評価は高いが陸軍からの評価は低かったにに対して、阿南はその人徳から陸軍の下僚から慕われていました。

 合理の梅津、人徳の阿南。
 
それが終戦のためには必要だったのです。

 この時期の梅津はどのような戦略構想を持っていたのでしょう。 
 それは「ソ連による和平仲介」でした。この構想は、この時期梅津が重用していた参謀本部戦争指導課出身の種村佐孝やその上官松谷誠がかねてより計画していました。 
 この方針最高戦争指導会議を通じて公式の方針となります。

 そもそも最高戦争指導会議とは首相、外相、陸海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長からなる会議体です。小磯国昭内閣時に発足し政府の意思決定を図る目的で設置されました。重要事項の決定に際しては天皇が臨席した御前会議ともなりました。

 6月22日の最高戦争指導会議でこの「ソ連の仲介」の方針を含んだ『今後採るべき戦争指導の基本大綱』が審議にかけられました。天皇の御前にて和平を求めていくことが合意されます。ただしでこの大綱には「飽く迄戦争を完遂しもって国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」としている点で方針の部分転換に過ぎなかった点は注意が必要です。
 この御前会議において陸軍はあくまでも本土決戦で一撃を入れた後に外交交渉を通じてソ連の仲介による和平を期待するという態度だったのです。内心では終戦を望む梅津も、陸軍内部の主戦派の暴発やクーデターを恐れ、公にはこの方針を支持する主戦派としての態度を取っていたとされています。
 
 ただし公の態度はどうあれ、当初から和平を考えていた梅津は和平の速やかな実施の必要性を認識していました。
 例えば6月22日の御前会議においても、天皇より和平について「慎重を要するはもちろんであるが、和平の時期を失することなきや」と御下問されると「速やかなるを要します」と奉答しているように梅津の和平派としての側面が見えてきます。

 そして梅津は天皇には継戦が難しいことを密かに打ち明けてもいました。
 6月23日の天皇への奉答の内容です。
 「即ち在満支兵力皆合わせても米の八個師団くらいの戦力しか有せず、しかも弾薬保有量は、近代式大会戦をやれば一回分よりない」
 間接的にではあるが精鋭のはずの大陸の兵力が実戦に耐ええないと訴え、本土決戦の自信のなさを正直に告白しているのです。

 このように日本が抗戦か和平かで揺れる中で連合国が動きました。
 7月26日連合国はポツダム宣言を発しました。
 日本に対して無条件降伏を突きつけたのです。

 このポツダム宣言を巡って意見が分かれます。政府の方針は国体護持の1条件を要求すべき、軍部の方針は国体の護持に加えて3つの条件を付ける4条件を連合国に要求すべきいうものでした。意見は対立し平行線を辿り、時間だけが過ぎました。
 
 8月6日広島に、8月9日に長崎に原爆が投下されました。
 またこの8月9日にソ連が日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告しました。

 国力の限界と、「ソ連による和平仲介」という国家方針の破綻から遂に日本は降伏に向かうことになります。

 8月9日最高戦争指導会議が開かれました。
 1条件と4条件の間で遂に結論は出ませんでした。ついに鈴木貫太郎首相は伝家の宝刀を抜きます。御前会議を開き、天皇の御聖断を仰ぐことを決めました。その結果、天皇の御聖断により国体護持の1条件をアメリカに対して申し出ることに決まったのでした。
 政府の条件案を支持する御聖断の背景には軍の戦争指導に対する天皇の不信任がありましたが、梅津の大陸の状況についての奉答などはまさにそれを助長していました。梅津の隠れたいとは軍の恥を晒してでも天皇に助け舟を出しもらおうとしていたとみることさえできるでしょう。天皇の御聖断なくしては本土決戦の方針の放棄は梅津と言えどもできなかったので

 8月12日アメリカからの回答「バーンズ回答」がありました。
 ハーンズ回答を巡ってもまたもや閣議は対立しました。
 8月14日再び御前会議にて天皇の御聖断により、ポツダム宣言の即時受託が決定されました。
 この8月14日陸軍省軍務課と近衛師団を中心としたクーデター「宮城事件」が発生します。青年将校たちは梅津に決起への同調を訴えたが、梅津は「既に大命は下った」と一蹴しました。結果として、全軍を巻き込んだクーデターは回避されたのです。

 この8月14日の午後に梅津は参謀本部の部員を前に次のように語った。
 「今や御聖断に従って粛々と行動することが皇軍の名誉と民族の存続につながることになる。決して軽挙妄動することのないよに」
 2・26事件、ノモンハンに続き、またしても、そして戦時中最後となる梅津の仕事はやはり軍の統制をしっかりと握ることでした。
 
 8月15日正午の玉音放送をもって日本は終戦を迎えました。

ミズーリ号の上の梅津(最前列の右側)

 梅津の最後の仕事は降伏文書の調印でした。
 当初は嫌がったものの、天皇から直々に頼まれてしまい、断り切れず引き受けます。

 その後の梅津は東京裁判でA級戦犯として禁固刑が下ります。
 1949年その最後を迎えました。享年67歳でした。

 終戦について梅津の果たした役割は評価が分かれます。
 終戦の意図を自分の内に秘めてひそかに進めた態度そのものが今なお歴史家の間で争点となっています。
 あくまでも本土決戦と講和の間で揺れた「中間派」という評価から、内心では終戦を決心していたが下の暴発を恐れ慎重に事を進めたことで最終的に終戦を導いたとの評価まであります。
 確かな事実は、その和平に向けた動きは直属の部下の河辺参謀次長にさえ洩らさなかったほど慎重だったことです。梅津参謀総長は本当に重大な決心をその内に秘めて一人孤独に決断した将軍でした。

 評価は分かれるとはいえ多くの人の一致するところは、梅津の下の意見に揺れない自ら決心する姿勢は首尾一貫していたということです。2・26事件、ノモンハン、終戦とその意思の強さを示した点こそが天皇から深く用いられた所以であるのでしょう。

 最後にもう一つ梅津が終戦に日本を導いた一つの功績を紹介したい。
 最高戦争指導会議の人員構成についてです。
 「今後機微なる戦争指導を実施するためには幹事無しで実施する場合あるを予期するが如何」
 最高戦争指導会議から、各大臣や参謀総長の補佐官(幹事)を排除し、トップだけで会議をする必要性を予期しこの方針を盛り込んでいました。

 なぜ最高戦争指導会議が御前会議として御聖断を仰ぎ終戦を導いたことができたのか。それは幹事を排除して機密が外に漏れることなく、下の意見に惑わされるず、トップダウンで決断できる環境だったからでした。それを行える組織として最高戦争会議を設計したのは梅津の機転あってのことでした。


梅津とは何者だったのか

 本稿は想定していたより長くなったので手短に失礼します。

 梅津美治郎。
 陸軍次官、第一軍司令官、関東軍司令官、参謀総長。
 日本陸軍の中枢にいました。

 そんな梅津が参謀総長に就任する前に息子にごちました。
 「また後始末だよ」

 まさに後始末の人でした。
 2・26事件、ノモンハン、太平洋戦争。
 その悉くにおいて反対しながら、むしろ反対したからこそ、適任者だったのです。だから彼は後始末を任されることになりました。

 昭和陸軍は下剋上の時代でした。血気盛んな中堅将校が上官を担ぎだして己が目的を達成する時代です。
 その中にいて派閥に関わらず、自ら決断したのが梅津将軍の在り方でした。
 彼の最後の後始末がなければ日本は今と違う形になっていたかもしれません。


おわりにかえて

 梅津を書こうと決めたのは、日本の戦争指導の中で確固たる意志を持った立派な将軍がいたことに感銘を受けたからにほかなりません。
 そして多くの梅津研究は梅津を肯定的に評価するところから出発しており、例えば山本五十六愚将論のような、批判的な視座に立脚した研究が少ないのが現実です。
 私の議論も原則的には梅津への肯定的評価をした研究に立脚しています。
 その点で今後の梅津研究の発展に期待を寄せて本稿の締めとさせせていただきます。

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4/27 追記
太平洋戦争の通史の議論を書きました。
こちらの記事が面白かった人にはきっと興味を持っていただけるかと思います。よろしければこちらもぜひお読みください。

8/13追記
Boothにて通販開始しました


参考文献

上法快男『最後の参謀総長 梅津美治郎』芙蓉書房、1976年

柴田紳一『参謀総長梅津美次郎と終戦』『國學院大學日本文化研究所紀要』第八九号
山本智之『主戦か講和かー帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年

藤井非三四『陸軍人事』潮書房光人社、2013年

筒井清忠『昭和史講義【軍人篇】』ちくま新書、2018年

岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』祥伝社、2021年

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