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【終戦・遅盆企画】追憶のグルメ∶祖母が総力戦体制下で作ったソース味のきんぴらごぼう

どうもミリタリーサークル「徒華新書」です。
 本日のミリしら(ミリタリーの実は知らない)です。
 @adabanasinsyo

 今回の記事は、「個室としての子供部屋」がなく一部屋を三人兄妹共用、しかもベランダへの動線を含むから壁際しか自由にできないものであり、寝室に至っては家族全員共用という、「営内かな?」「プライバシーisどこ」とか言われる環境で育ったせいで、
祖父と母に『妹夫婦が子連れで泊まりに来て空間が足りなくなるから一週間あっち(強制収容所)で戦略持久しろ』と言われてしまい、今年は迎え火にも送り火にも参加することができなかった、させてもらえなかった北条岳人がお送りします。
@adabana_gakuto


 今年はそんなクソみたいな状況にあったので、せめて何らかの手段で亡き祖母に思いを馳せたいと思って居ったのですが、唐突に思い出したのです。
おばあちゃんが言ってた、「配給の醤油が止まってしまって、仕方ないから配給が余ってるソースできんぴらごぼうを作ったことがある」ってな。
そこで母者に頼んでソースを使ったきんぴらごぼうを作ってもらい、それを食べて思いを馳せることに、そして祖母がそう言っていたこと、祖母が「いた」ことを忘れないために今回の記事にしました。

 とはいえ配給で出されていたソースが何なのか、そもそも現存するのかは分かりません。とりあえず祖父に「戦前のソースってどんなだった?」と聞いたところ、
俺が子供の頃はとんかつソースとか中濃ソースはなかったな、ウスターソースなんじゃねえか」とのことなので、ウスターソースで作ってもらうことにしました。

この記事における申し訳程度の学術的な部分

 実際、祖父の記憶は正しいと思われます。ソースきんぴらの話を聞いた時に「そのソースの銘柄はなんだったのか、今でもあるのか」気になってソースの歴史や、醤油とソースの配給について調べたことがあるので。結局銘柄は分からずじまいでしたけれど。
独立行政法人農畜産業振興機構がかつて公開していたソースの歴史に関するページには

こうして全国的に生産・販売され、日本人にウスターソースが知られて利用されるようになると、「ソースといえばウスターソース」という認識が定着するとともに、その他の洋風調味料も使われるようになった。

昭和20年の終戦時までソースは現在のウスターソースのみが製造されていたが、戦後のソースの特色は、戦時中の甘味不足の反動からか甘いものが好まれるようになり、次第に甘味が強く、酸味が弱く辛味の少ないものとなった。また、従来の野菜類の他に甘味のあるりんご等果実類を使用してとんかつソース、フルーツソースと呼ばれる粘度の濃い日本独特の濃厚ソースが登場した。さらに30年代後半には、ウスターソースと濃厚ソースの中間的な粘度の中濃ソースが発売され、その口当たりの良さから東日本方面に急速に普及した。

 とあります。また、調味料の配給に関しても、法政大学大原社会問題研究所がかつて掲載していた「太平洋戦争下の労働者状態」という記事で、
醤油や味噌が43年2月から全国一律に通帳制になり、かつ年次を追うごとに質・量ともに悪化していったことが指摘されています。
肝心のソースの配給量について、特に醤油比でどれだけ❝だぶついてたのか❞はわかりませんでしたけど(両者とも下記参考文献参照のこと)。

 ただ、「品種改良が進んだ現代では1916年版ヘンゼルとグレーテル*が作られるまでにドイツ国民の不興を買ったKブロートと同じレシピで作ってもKブロートと同じ味にはならない」のと同じように、
祖母が食べて「まずかった」と言ってたその通りの味になるのかどうか。それは分かりません。そもそも銘柄が違うかもしれないし、仮に銘柄が同じでも成分が違う可能性が高いのですから。
*パンをちぎって歩くまでは原作と一緒。「このパンはKブロートだったのであまりにも不味くて鳥も食べず、二人は無事にちぎったパンくずを辿って家に帰れたのでした。めでたしめでたし」で終わる。

でもそんなの関係ねえ。

 「実際に作って食べてみること」が重要なのです(ブルーアーカイブの美食研究会めいた主張)。
「まずかった」という伝聞だけで済ませるのと「確かに美味しくなかった」では、解像度みたいなものが断然違うでしょう?

祖母の、及び祖母との思い出

 ぼくの亡き祖母、北上(旧姓・藤井)紗千子(きたかみ・ふじいさちこ)(仮名)は、本来の定義の通りの3代続いた江戸っ子だったみたいなので、東京生まれです。
江戸っ子という割には、落語に出てくる江戸っ子のような短気なところはなく、穏やかでにこやかな人でした。そして、生まれは東京なのに巨人でもヤクルトでもなくベイスターズファンでした。
 だから他球団ファンの人はぼくの視界内でベイスターズを思いっきりバカにしない方がいいですよ、「お前今ぼくのおばあちゃんが生前好きだった球団のこと散々バカにしたよな???
つまりお前はぼくのおばあちゃんを馬鹿にしたってことであって、今ぼくに宣戦布告してるよな?????戦争か??????????(精神異常者しぐさ)」という異常者行動をされたくなければ。

 祖父があまり電子機器を使わないのと対象的に、祖母はスーパーファミコンやゲームボーイアドバンスSP、タブレットなどでゲームを嗜む人でした。
特にスーパーファミコンで「さめがめ」や「花札」をよくやっていて、今でも「さめがめ」をつけるとぼくが幼稚園や小学生だった頃に祖母が出したハイスコアが残っていたりします。

 花札に関しては、祖母がやってるゲームの花札に興味を持っていると、祖母はリアルの花札を出してきて、一通り教えてくれました。
ぼくは麻雀はリアルでもウェブでもからっきし(役を覚えてない・順子や刻子を「塊」として認識するため機を逸しがち・和了牌がどれだか自分で分からない)ですが、
花札に関しては祖父母仕込みなので点数計算からルールの説明まで一通りできます。中学生の頃には「校則にトランプは禁止って書いてあるけど花札禁止とはどこにも書いてない」という理由で
クラスメイト二人にルール・役・点数計算を叩き込んで流行らせようとしたことがあるくらいです。……担任に摘発されちゃいましたけどね。発達しぐさだ。

 祖母はあまり戦時中、あるいは戦後の体験を語らない人でした。今回のソース味きんぴらごぼうの話も、そもそも母が知らなかったくらいです。
尤も、母に曰く「最近の朝ドラでなんやかんや戦争にふれるようになったから、おじいちゃんも時々戦争中の話とかをするようになったくらいで、
子供の頃は戦争中の話とか全然聞いたことないよ」とのことなので、そういう時期的なファクターもあるのかもしれませんけど。
 対して祖父の戦争体験は色々と面白い話があります。「疎開先で地元のヤクザみたいなのに気に入られた」とか
「弟が自分の自慢のベーゴマを勝手に持ち出した挙げ句に負けて奪われて泣いて帰ってきたので、
叱りつけた後誰に負けたのか案内させ、そいつに勝って奪い返してきた」とか。
当時ベーゴマは往々にして改造(鉛を巻くなど)をするものだったらしいので、現代語にすれば「自分のフルチューン・フルカスタムのベイブレードが物理的に使えない状態で、相手に勝って取り返してきた」ってことですね。爺さん強すぎだろ。爆転シュートベイブレードか?

 小学生の頃に給食で出た夏みかんの種を持って帰ってきて、祖父母に「桃栗三年柿八年だから夏みかんもたぶんそうだよ!実ができたら食べさせてあげるね!」
と庭に植えたものですが、祖母が生きている間には、ついぞ夏みかんは実をつけてくれませんでしたね……

 その小学校の課題で「戦争体験を聞いてこい」という課題が出た時には、おばあちゃんは「進駐軍から(ノミ・シラミ対策で)DDTを吹きかけられて全身真っ白けっけになった」という話をしてくれましたが、
高校生になってから、つまりミリオタになってからのぼくは、おばあちゃんに「戦争中の話を聞かせてほしい」とは言えませんでした。
「爺さんは時々昔の話をするがおばあちゃんはあまりしない」というのもそうですが、「課題で」聞くのと「趣味で」聞くのとでは性質が違いすぎるだろ、という遠慮があったのです。
 今にして思えば、そういう体験を聞いておいてコピ本にまとめ、国会図書館に投げつければ、この国が存続する限り「おばあちゃんがこの世にいた事実」は保証されたのに、と若干後悔しています。
家のドアを開けたら強い線香の匂いに出迎えられたことより、おばあちゃんがよく被っていた帽子が棺に入れられたことの方がショックで悲しかったタイプなので。

 その祖母が生前に語った数少ない回顧は
・戦前の町並みはこういう感じのラウンドロータリーがいろんなところにあった(映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」を一緒に見た時だったか?)

・「東京市歌」ってネットに音源がないのか聞かれたことがあり、見つけてあげて流したら懐かしんでいた

・遠慮せずにおかわりしてもっと食べなさい、という文脈で「軍隊小唄」の1番を歌った

嫌じゃありませんか軍隊は
金(かね)の茶碗に竹の箸
仏様でもあるまいに
一膳飯とは情けなや

 そして今回の主題、
・「配給の醤油が止まってしまって、仕方ないから配給が余ってるソースできんぴらごぼうを作ったことがあるけど不味かった」です。

実食と感想

 今回母は、胡麻がかかっている左側の醤油味と、かかってない右側のソース味のきんぴらごぼうを以下のようなレシピで作りました。

食材∶ごぼうと人参を半分ずつ
1.ごぼうと人参をサラダ油で炒める
2.食材を柔らかくして味をよく染みこませるため、ひたひたになるまで水を入れた後に砂糖大さじ1弱を入れて煮る
3.その後、醤油またはウスターソース(銘柄はイカリソース)で味付けする

見た目はあまり大差ない

 実際に食べてみると、この❝ジェネリック戦時下きんぴらごぼう❞は思ったよりかは全然食える代物でした。
醤油味に比べて甘さみたいなものが弱く、ほのかなウスターソースの香りと醤油に比して多少塩味を強く感じる程度で、
例えば全く知らない誰かの家で「これがうちのきんぴらごぼうです」と言われたら『まあ、そんなもんか』と納得できるレベルではありました。

 但し、これは母も言っていたのですが、食材を柔らかくするために砂糖を使える戦後だから食えるレベルに落ち着いた可能性はあります。
醤油がなくなるような配給状態では、砂糖なんて醤油より配給状態が悪くおいそれと使える訳なかったでしょうから、
砂糖で煮る過程をすっ飛ばす、正確には砂糖抜きで水だけで煮てからウスターソースで味付けしていたら、
1945年リエナクトきんぴらごぼうゲロマズ味ができあがってセルフ捕虜虐待になっていたかもしれないという可能性は否定できません。
 祖母の体験と母の調理過程の両者を聞いて思ったのが
・砂糖を使えないからあまり食材に味が染み込まないこと
・食材が柔らかくならないから根菜類の灰汁の味が残ってしまって、それを調味料でごまかしきれないこと
・肝心の調味料も洋風調味料であり醤油より塩味が強いウスターソースであったこと
このトロイカ体制によって、祖母をしてまずかったと言わしめたソース味のきんぴらごぼうができたのかな、というのが推論です。

あとがき

 今回の記事は国家総力戦の時代に生まれた人に思いを馳せる少し特殊なーーすごく個人的な企画でした。
「故人を記事のネタにしている」という批判がもし生じるなら、甘んじて受けなければならないと思います。
 でもぼくは敢えてそれに抗弁したい。「誰かが形にしなければ、こういう口伝の歴史は忘れられて消え去るだけだが?」と。
「まさか、本で読んだことだけで、想像だけで、戦争や歴史の❝すべて❞を分かったつもりでいるのではないだろうな?」と。
母もこのソース味のきんぴらごぼうのことを知らなかったのだから、もしぼくが忘れたら、この祖母の戦争体験は永遠に消えてなくなるのですから。
そのためにも、「ぼくはおばあちゃんのことを忘れてないぜ」という今回の記事を作った、そして作りたかったのです。

 みなさんも、想像を絶する「国家総力戦の時代」に思いを馳せるため、戦時下のレシピについて調べたり実際に食べてみてはいかがでしょうか。
また、戦前生まれの人が親類にまだご存命の方は、その記憶が永遠に失われてしまう前に、何らかの形で記録に残してはいかがでしょうか。

参考文献

ソースについて 農畜産業振興機構(アーカイブ)<https://web.archive.org/web/20210617212110/https://sugar.alic.go.jp/japan/view/jv_9906b.htm>
法政大学大原社研_副食品の配給と消費〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態147〕(アーカイブ)<https://web.archive.org/web/20031024044723/http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-147.html>

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