赤穂浪士から見る現代
講談の調べに耳を傾け物思いにふける第2弾。
ふと浮かぶのは、赤穂事件の物語が現代に投げかける影のような問いかけである。
かつての時代にあった忠君の美徳、
主君のために命をかける潔さ—
それらが一面的に称えられ、忠義の物語として完結してきた。
しかし、現代の私たちにとって「主君」とは何であろうか。
主君のために己を捧げる時代は遠い昔のことであり、そもそも誰に忠誠を誓い、何のために生きるのかは、個人が自ら問い直すべき時代となっている。
それでも心の奥底で、私たちはどこかでこうした確かな「生きがい」を求めているのかもしれない。生活に追われ日々の役割に追随するだけで過ぎていく日々の中、
自分自身の人生をどのように使うかについて考えることは、いつしか軽んじられているのではないだろうか。
ぼんやりと漫然と時を過ごし、
気づけば歳を重ねて、
やがて横たわるようにその終わりを迎える。
それが今の世の中では「普通」であり、ある種の幸せとして受け入れられているのだろう。
しかし、赤穂事件をふり返るとき、
その光と影に現れるのは、強烈な「生きる意味」を見出そうとする人間の姿である。
赤穂浪士たちのように、
何かに命を懸け、あるいはそこまで至らずとも自分の生き方を見出すために戦う姿—
それはどこか現代の私たちが置き去りにしてきたものを浮かび上がらせるようだ。
ところで、討ち入りに参加した
47人の浪士の背後には、
それ以外の赤穂の人々がいたはずである。
討ち入りを決意せず、
異なる道を選んだ者たちも少なくなかっただろう。彼らが参加しなかった理由、
討ち入りに関する意志は様々であっただろうが、そこには「生き方」の選択があったことは確かだ。強制参加であったのか、それとも自主的な決断だったのかは今となってはわからないが、いずれにせよ彼ら一人一人にとっての「忠義」や「使命」は異なる色彩を帯びていたに違いない。
この時代の物語を通じて私たちが今の世の中に問いかけるべきなのは、「主君」のような存在や、自らの命を賭ける「使命」を見出すことができるかどうかだ。忠義に殉じた者も、異なる道を歩んだ者も、彼らはそれぞれの生き方を選んだ。そして現代の私たちもまた、自分にとっての「使命」や「生きがい」を見つけることができたのなら、その瞬間こそが、自分自身の命が何か大きな意味とつながった瞬間なのかもしれない。
時に世の流れは無情に過ぎていく。だからこそ、私たちは、自らの人生に真摯に向き合い、その「使い道」を問い続けるべきではないだろうか。何に命を懸けるか、誰に忠誠を誓うのか—その答えは人それぞれであり、人生の終わりに向けて歩む途上で見出されるものかもしれない。それが見つかったときには、それこそ「使命」と呼べるものであろうし、そこに向かって突き進むことで、私たちの生は豊かに彩られるのだ。
赤穂事件の物語が今もなお私たちに語りかけるのは、かつての忠義の物語を超えて、現代に生きる私たち一人一人が「どう生きるか」を問い直すよう促しているのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?