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霄壤の際で種子を育む
蒼穹と大地、
その境界の曖昧さが生み出す一筋の裂け目。
目に見えぬ風が囁き、
耳には届かぬ光が舞い降りる。
霄壤の際に立ち尽くせば、
時間さえもその輪郭を溶かし、
過去と未来はただの幻影に過ぎなくなる。
その裂け目に蒔かれる種子は、
形も色も持たない。
それは概念の種、
問いの種、
沈黙の種。
芽吹くかどうかは、
土の栄養ではなく、
霊気の巡り次第。
霄(そら)は無限を語り、
壤(つち)は有限を囁く。
だが、両者は互いに排斥しない。
むしろ、その対立が和解を招く。
成長の弧を描きながら、
その終点で出会うものは
「完全」ではなく「さらなる問い」
やがて、種子は自身の形を忘れ、風となる。
その風は霄を突き抜け、
壤を撫でる。
種子を生んだ裂け目を再び拡げるように。
霄と壤の隙間に潜む、果てなき境界。
それは世界の裂け目であり、
また結び目でもある。
虚空に漂う微粒子たち
その一つひとつが、
遥か昔、星々が燃え尽きる際に吐き出した灰。
あるいは、未知なる始まりの
地平線から舞い上がった微塵。
それらは風に乗り、
降り積もり、壤を生む。
壤は、生命の重さを抱きしめ、
霄へと語りかける。
そこで芽吹く種子があるとすれば、
それは人の心の隅に灯る微かな願い。
願いは、霄の無辺の冷たさに触れ、
壤の温かな湿り気に包まれて膨らむ。
やがて根は大地を掘り進み、
幹は天空を貫こうとする。
霄と壤の際にて、目に見えぬ種子が待つ。
その種は、かつて風の無声の呟きを宿し、
大地の無窮の懐で身を結びしもの。
その沈黙は、霄の高みを映す鏡となり、
壤の深みを抱く器となる。
彼方も此方もなく、ただその間に、
無数の可能性が震えている。
時の刃が際を撫で、
目に見えぬ境界を形作る。
種子はそれを知覚し、己を割る。
胚芽は、かつての霄の憧憬を取り込み、
根は、壤の記憶を抱きしめる。
育むという行為は矛盾の結晶。
霄はその軽さを失い、
壤はその重さを解き放つ。
種子が生み出す一筋の命は、
縦でも横でもなく、ただ真理の一点を貫く。
虚空と大地、その隙間には
言葉の種子が散在する。
霄は無限の拡がりであり、
壤は限りある掌。
だがその境界は静謐ではなく、
波立つ感情や理性の流れが交差する狭間。
そこで蒔かれる種子は、
何を約束するだろうか。
光を求める芽吹きの力と、
重力に逆らえぬ根の重みが、
どちらに傾くかを決するのは、
風の無作為と人の意志の交響。
種子は上昇と下降、夢と現実、
自由と制約の矛盾を抱えつつ、
芽吹く瞬間に自己の正体を知る。
その正体とは、境界そのものを糧とする力。
人もまた、内なる種子を抱える者。
問いと答えの間を揺蕩いながら、
自らの「霄壤」を耕す農夫である。
天と地、その狭間に存在する境界は、
確かなようで曖昧。
霄は空、無限を抱擁する蒼の深淵。
壤は大地、あらゆる生命の根を宿す母の掌。
この二つが出逢う「際」
目に見えぬ力の渦巻く揺らぎの場。
種子はここに落ちる。
可能性の凝縮、未来を秘めた無数の扉。
風に吹かれ、偶然と必然の糸に導かれ、
この曖昧な「間」に辿り着く。
空と地が囁き合う声に耳を傾け、
種子は次第に自らの存在を知る。
霄の抱擁はその夢を広げる。
遥かなる高みへ、
何かになろうとする欲望を掻き立てる。
だが壤の沈黙は語る。
上へ行こうとする心と、
下へ降りようとする力。
二つの矛盾が種子を裂かず、
むしろ形作る。
可能性が抑圧と解放の狭間でどう芽吹くか、
それを試す過程。
種子は小さな殻を破り、
芽を伸ばす。
やがて、種子は芽となり、
幹となり、木となる。
しかし、その根は際の真下に
留まることはない。
霄壤の境界線を超え、
上空を裂き、地下深くに挑む。
この世界のあらゆる境界に、
見えない種子が宿っている。
空と地、人と人、光と影
その際に、無限の物語が潜む。
私たちは、それを見逃さぬ者でありたい。
霄壤の際で種子を育むとは、
自己と他者、夢と現実、
問いと答えの間で生きること。
そして、その間に宿る可能性の種を、
私たち自身が育むということ。
霄と壤、問いと答え、
その間(はざま)のすべてが
一つの実在として結実する。
霄壤の際にて、
命の始まりが今も続いている。