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心無い指揮官ENTJの思考回路と死ぬほど嫌なこと


はじめに

この文章は自己分析を意図したものであり、特定の性格や、相手を貶める意図は一切ないものと前置きしておく。相手には相手の事情や信念があり、私にも私の信念がある。人間関係とは互いを思いやって成り立つものであり、相手に合わせて注意深く対応してきた。この問題の発端についての意見は見当違いのものと捉える。
互いの性格についても長年の付き合いとやりとりから理解しあっている上で、互いが互いを全く考えの異なる人間であると自他ともに認めている関係値の上で起きたできごとだった。
このすれ違いきっかけに、自己分析はしつくしたと思っていたものの、改めて自己を見つめなおすきっかけをくれたことに感謝している。
あらためて自分の性格が”あのタイプ“だと思われるのも無理はないと、受け入れざるを得なかった。

前提として、私は相手とそれはそれは長い付き合いで、お互い何でも話せるほど信頼しており、偽りなく本心で接するようにしていた。互いに夢があり、私にとって互いの関係値はそこが最大の魅力だと思っていた。二人とも素を晒すと自分の芯というものが強く頑丈である。その所為もあってか、ここ最近で度重なったすれ違いから、改めて自分の変え難い芯となる性格要素と「されると死ぬほど嫌なこと」について完全に理解したので整理した。ここでは割愛するが、相手と私の生い立ちの違いによるものも多いあると思われ、性格云々のみに限った話ではない。
また、私が最近自分を偽らないように努めていた結果起こった悲劇だったのかもしれない。

パーソナリティの多様な類型論についての詳細は各々で調べてみてください。私自身としては流行の数年前から認知し、心理学などの一環として、数多のツールの内の一つと捉えて勉強していた身のため、肯定派でも否定派でもなく、エンタメとして楽しんでいる部類でもありません。
ここでは分かり易く、4文字の表現とそれを象徴するニックネームを用いらせていただきます。社交辞令や他者の目などの外的要因を一切取り払った本来の自己の姿を捉えるのに有用だと思います。

ENTJの私がされて嫌なこと

  • 人にコントロールされること

  • 他人の愚痴や批評を聞かされること

  • 興味のないことについての意見を求められること

    • 不必要な嘘をつくことになる

    • それが自分の意見だと勘違いされることが嫌

    • 造られた意見は本当にあなたの望んでいる回答なのか疑問


人にコントロールされること

さて、これまで自分がENTJであるという確信が持てなかったが、その杞憂の日々もついに終わりを迎えた。
私は日常の些細なことでさえ、人にコントロールされるのを過度に嫌っているのだ。いったいどれほどかといえば、それはもうこんな長ったらしい記事が余裕で書けてしまうくらいには嫌いなのだ。
相手が家族であれ友人であれ、私に対して筋が通っておらず、不当に何かを要求するばかりでこちらの意思を尊重していない発言や態度だと感じたら、それに応じることは私自身の意思による行動にはならない。私はそういった見えづらい不穏な陰を敏感に察知し、無意識のうちに拒絶しているらしい。要はそういったことを言われた時、私は相手が誰であれ反発する。さながらトランポリンのように相手を精神的に弾き飛ばしてしまうようだ。
ここで重要な前提条件は、私は普段、他者に対してほとんどと言っていいほど自己主張しないことだ。

自分の意志で行動しているかどうか

自己主張を控えること。これは意識的にそうしているので、自分の意志による言動だ。そうしなければむやみやたらと敵を作ることになる。自分がなぜこうするに至ったか腑に落ちた。いくら自分の意見があろうとも、敵を作ることは自分になんのメリットもなければデメリットしかない。だから極力自己主張を控えるようになったのだろう。
仮に他者からの要求に筋が通ってないとしても、私の中でそれに応じる「理由」や配慮すべき「事情」を見つけることができ、その結果私が進んでやるのならそれは私自身の意思であり、私自身から他者へ見返りなく与えられる「サービス」である。昔から人の言うことや人のペースに合わせることは基本的にはストレスだったが、人間社会ではそうも言ってはいられないことを幼少期の早い段階で学んでいた。よってその時々で上手く立ち振る舞って、自分に見返りがあると言い聞かせながら凌いできたので、客観的にみると、私はいわゆる合理的なコミュニケーション強者であると思われる。
しかし、なんの上下関係も利害関係もない、一友人から「ああして欲しい」「こうした方がいい」「これはやめてほしい」「そんなこと言う必要ない」などと言われるのは、例え長年の付き合いがあろうと不愉快だ。
私の方も相手の気持ちへの配慮が足りなかったことは認めるし謝罪もする。そしてお互い様だからと、そういった言動に目をつぶってきた。しかし、そのことと「私への要求やその態度、そして何より自分を棚に上げた理不尽さをはらんだ指示」とは別の問題だ。気持ちを言ってくれれば素直に謝るし、自分のやり方を少し変えてみようと思える。相手がそれをすること自体は相手の自由だから構わないし、私はその態度を改めさせる気もない。

気が強すぎる

私は気が強いので、これまでずっと、極力他者をコントロールしようとしないように気を配って生きてきた。人には人の自由な意思と信念があるからだ。この気質を抑えることは、人生に於いて大きなストレス要因である
だからこそ、相手の横柄な態度がたとえ相手の首を絞めるであろうとわかっていても、言うべき段階になるまでは、つまり、相手に不利益が生じると思われるときまでは口出しを控える。なぜなら、誰しも精神上の作用や体調の影響により、一過性の自分勝手な状態になるものであり、それが相手の本来の姿ではないかもしれないからだ。
そう考えているとはいえ、言われた私がそれに従う道理は一切ない。大抵の場合、自分の思うままに振舞う。そこになんらかの意図などは一切ない。ただ自分として存在しているだけだ。たとえ上下関係のある相手でも、間違っていると思えば間違っていることを指摘するのが私という人間だ。年功序列などという戯言も私には通用しない。

他人の愚痴や批評を聞かされること

当然、ある話題について私がハッキリと自分の意見や気持ち、私の立場からの発言を、私ならこう思う、と立て続けに言いすぎたのが相手の癇に障ったのかもしれないことは理解している。その点については申し訳ないと思っているし、謝罪もした。もしかすると今回、相手の精神状態も芳しくなかったのかもしれない。
けれど、常々私に意見を求めてきたのは相手だった。だから「受け身の態度はなんなのか」「あなたにそんなことを言う権利はない」等と言われても答えようがない。謝ることでもないとは思うものの、謝ることしかできない。なぜなら「相手の要求があったから応えるよう努めた結果の発言」からだ。
受け身も私の意志の現れだ。
そもそも、本来なら突っぱねられるであろう話題を「受け止められていること」にありがたみを感じてはどうだろうか。仲がよかろうが悪かろうが、なんだかんだと他人を批評する人間の話は私にとって不愉快なことに変わりない。

他人から傷つけられるようなことは皆無と言っていいほどない

それでもそんな私の気持ちは表には出さずに、相手の求めるものに応じようとしてきたつもりだった。相手は自分の意見や気になった話題を私に伝え、その上で私の感じ方や見てきた世界、意見を知りたいと言ってきていた。にもかかわらず私の物言いに反発し「それを言う必要はない」と言ってきたから、「それを言うならお互い様だからあなたもこれを気を付けてね」とやんわりお返しをした。私は相手に理不尽なことを言っていることに気づいてほしかったのだ。私以外でなければおそらくここでブチっと切れていてもおかしくはない。私が何を言おうが私の自由だからだ。
しかし、やはりこれが「やんわり」伝わっていなかったのかもしれないのは、テキスト上の会話だったからかもしれない。
「私があなたを傷つけたみたいに言われるのがしんどい」というようなことを、まるで私が被害者面をしたかのように言われてしまい、正直に言ってもう付き合いきれないと感じた。私は相手に対して「傷付いた」などと匂わす発言は一切発していないというのに、なぜかそう思い込んでいたようだった。私が傷ついていて、それを相手のせいにしようとしているのでは、という風に受け取られていたようだった。しかし私にそのような意図は全くなく、ただ相手の行いを指摘したまでで、それは私に相手がしてきたのと同じことだ。
私が相手に傷つけられたなどと、思っているはずがない。私を限界まで傷つけられるような人間など、私自身以外には存在し得ないので安心してほしいと思っているくらいだ。私は自分の感情や気持ちについて、客観的物理的な事象以外で、他人のせいにしたことはないすべての物事は自分の感じ方次第で変えられるものだと考えているからだ。
仮に傷つくような言葉を使われても、傷付くどころか笑ってしまうほどだ。暴言を言うような人ほど面白い生き物はないのである。
仮に他者からの意見が周囲から見た私の像で、客観的に見て自分でも確かに理解できるところであれば、それはそれで受け止めるだけだ。レビューしてくれてむしろ感謝したいくらいなもので、今回もそこに関して責めたつもりではなかったが、上手く伝えることができなかった。これは私の落ち度だ。

興味のないことについての意見を求められること

なぜなら……

  • 不必要な嘘をつくことになる

  • それが自分の意見だと勘違いされることが嫌

  • 造られた意見は本当にあなたの望んでいる回答なのか疑問

だからだ。

私はそもそも、他者から「このことについて考えて欲しい、意見を聞きたい」と言われ、その対象に対してすでに「興味がない」や「意見する立場にない」と結論づけていた場合、その話題に対して再考し「意見を用意する」ことは誠意にかけるし、正直に言って「言わされている」「嘘をつく」のと同じなので「やりたくない」と考えている。このことは私から相手に直接説明した。
「本当は私は、これをやりたくない」
「だけど相手があなただから、意見を考えて伝えようとしてきた」
そこについては理解してくれたようだった。
それでも数日経って別の話題になった際に、相手は「これをやってほしい」「これはしないでほしい」と言ってきた。今まで私は自分の本心を告げるか否かにかかわらず応じてきた。なぜなら、相手が長年の友人であり、どうでもいい人間ではなかったからだ。だから私はこれまで忌憚のない意見をはっきりと伝えてきた。相手が求めていると思っていたから。私は自ら負う必要のないストレスを請け負っていた。それを受け身だと非難されるのであれば、私の努力は相手にとってお気に召さず、意味をなさなかったようだ。
唐突に、相手から「そのリアクションや態度はなんなのか?」という思いを告げられた私は、意味がわからなくて困惑した。
それなら最初から私に意見など求めないで欲しい。私が本来は、意見や信念の強い独立した人間であることは何度も話を重ねてきた中で分かっていたはずである。私の気の強さも相手は知っていたはずだ。それに相手はよく、自分の嫌いなものは嫌いだとはっきり伝えるタイプだったので、私も相手の性格をよく理解していた。その話題を出さないで欲しいとまで要求してきたこともあった。私はその人物に特別な嫌悪感を抱いていないにも関わらず、むしろどちらかと言えば好意的だった。ただそもそも、私の好意の有無にかからわず、基本的に他人の悪口を聞かされるのが一番嫌いだ。その人が嫌いな気持ちと、話題に出すことを相手にまで制限することに、果たして筋は通っているだろうか。こういうところがいけないのは重々承知しているが、これを飲み込むと私は爆発寸前の爆弾と変わらなくなってしまう。
そう簡単に爆発することはないし許容量は人より大きいほうだが、もし仮に爆発するときが来たら、こういった長文の文章として淡々と現される。つまりそういうことである。


人の好き嫌いに興味がない

基本的に人を好きか否かで除外したりはしない

「その人は嫌いだから名前も出さないでほしい」と言われたの時の私の本心はこうだった。
「他人の悪いところを指摘してばかりで何の意味があるのだろうか」
「過去に過ちを犯したとはいえ、その人は同じ人間だ」
「そこまで毛嫌いするのも逆に恐ろしい」
「私に命令できる立場なのだろうか」「人にばかり求めすぎではないか」
「幼稚すぎる」

話題に出したことはすぐに素直に謝った。相手の嫌なことをした私が悪いのだから謝って当然だ。ただ、そこまで反応されるとは思いもよらなかったから面食らいはした。私の配慮不足だったと思う。ただ嫌いが故に笑えることもあると思っていたので、笑わせる意図で伝えたことだった。相手を和ませられるかと考えたのだが、逆なでしてしまったらしい。こういうところは私がズレているので本当に申し訳なかったと思っている。

それでも、相手の気持ちや不快感とは別に、私に意見や気持ちを話すことを要求しておきながら、自分のことは棚に上げて他人のことを批評してばかりいる相手に、それをするなと指摘される筋合いはない。そのような相手に素直に分かったよ、もうしないよ、と言えるだろうか。私には無理だった。

私に言わせれば、相手はいわゆるコンフォートゾーンという場所にうずくまっているように見えはじめていた。いや、最初からそういうタイプではあったが、それは相手の生い立ちや環境にも色々と事情があるし、悪いことでもないから何とも思ってはいなかった。それがその人自身の選択なのだから。とはいえ、ここまで言われてしまえば、自分自身の心地のいい「作られた回答」が聞きたいのだろうとよくわかった。それなら他を当たって欲しい。そんなものはこのインターネットの広い海でいくらでも見つけられる。それが真に価値のある意見だと思うならそれでいいと思う。

たとえ友人だからといって、あれこれ要求してばかりで相手に与えようとしないその態度には「TAKER / テイカー」という名前がつくほど、結果的に人を遠ざける振る舞いなのだ。私は以前より相手からその気配を薄々感じ取っていたため、それを私に向けてきたときには積極的に拒否してきたし、常々警鐘を鳴らして、相手にとって指示にならないように気を配り、できる限りやわらかく伝えてきた。
しかし治る気配はないようだ。残念に思う。はっきり言って機械相手に対話の練習をした方が良いとさえ思った。

残念ながら、他人には私をカスタマイズする権限は一切ないのだ。これは相手が誰であろうと同じである。親密度の問題ではない。人は自分の意思で生きるべき考える葦である。人間は数多の生物の一種にすぎず、特別な生き物ではない。葦に手をかけた時、それはたやすくちぎられる。植物はそう簡単には動かない。他人を動かすことは容易ではない。身勝手な自身の欲求に任せて、無理やり動かそうとしていることがいかに傲慢な態度であるか、早く気づいたほうが身のためだ。雑草をちぎろうとしていることと何ら変わりない。そう思ってそれを伝えてきたが、もうどうにもならないなら、そっと離れるよりほかにない。
これまでお互いの夢のためのモチベーション維持につながると考えて、相手からの「ん?」と疑問に思う要求にも「相手が嫌なのであれば」とできる範囲で応じてきた。私も意見の違いやその結果生まれる議論が楽しくて会話を継続してきたが、それももう終わりのようだ。相手を許容しようとした結果の私の態度が気に食わないのであれば、私はもうあなたのことを一切気にかけはしない。そのほうがお互いのためだからだ。

決して嫌いになったわけではない。元々私はあまり人のことを嫌いにならない。嫌いな人は?と聞かれてもパッと思いつく人物もいない。間違ったことは間違っていると、疑問に思うことは疑問だとハッキリ言うのが私だ。ただそれだけのことをしたまでで、それが肌に合わないなら仕方ない。

その相手は、私の人生における重要人物のリストから外れただけだ。それも、相手自身が望んだことだ。
今回はここまでのことを相手に逐一説明しなかった。火に油を注ぐことが分かっていたからだ。もう話しても進歩はないと思い、それ以上意見を伝えることなくあっさりと身を引いたが、私の率直な意見は以上のとおりだ。私に意見を求めるのなら、こちらとしては3000字以上の小論文にしてやってもかまわない。そんな変人はいないだろうが。

おそらく、ENTJはそう簡単にはキレない

これは自分が変なのか不明だが、自分でも自分が何をされれば怒れるのかがわからない。ここでは、「怒る」とはつまりは「怒りの感情を感じてそれを表に出す」というところまでを指す。
人から言われたことがあるのは「優しい」「おっとりしている」「受け身」だが、「怖い」のようなほとんどマイナスなことを言われたことはなく、しいて上げるなら「天然」や「変わってる」「気が強い」という言葉だ。これは先ほど書いた通り、普段私がどれほど自我を出さずに人当たりよく振舞うスキルに特化しているかわかると思う。
それが好きでやっているわけではなく処世術だと思っているので、明らかにF型ではないものの、Fの重要性も理解はしている。人当たりが良い割に、意見があるときはハッキリ言う為驚かれることも少なくなく、その落差の所為で変わっているや天然などと勘違いされているのだと思っている。

普段感情をコントロールしているからか、余計に沸点が迷子なのだ。何かトラブルがあっても、まず真っ先に解決したいと思って考えを巡らせてしまうし、そうこうしているうちになんだか馬鹿らしくなってきてどうでもよくなっているということが多い。これがFiが劣等機能である所以なのか。
確かに、昔から心理学に興味があって勉強してきた。それは自分は人の考えることやなぜそのような行動をとるのか知りたかったからだ。昔の私はこれを「自分は共感的で人の気持ちをわかるタイプだ」と勘違いしていたが、今考えるとそれはおかしい。なぜなら、他人の気持ちが容易に分かるのならそもそも調べて学ぼうとしなくてもいいからだ。この点も自分が自分の感情から遠く、めったに感情をあらわにしない人間だと腑に落ちた要因だった。
物語等に感情移入して共感できることと、他人の気持ちがわかり、配慮したり、感情をあらわにすることとは別々の問題だ。

ちなみに「天然」とかいう言葉はあまりENTJに言わない方がいいと思われる。他人からみて何を考えているかわからなかったり、不確定要素が強い相手に何と返せばいいかわからずにこう言うことがあるのだと思うが、はっきり言って雑にバカにされてる感じがする。少なくとも私は自分のことを天然と言ってきた相手と仲良くなろうとも、知りたいとも思えたためしがないので、ぜひENTJぽい人とお近づきになりたいなら言わないことを勧める。
まあENTJって現実で探そうとしても、ENTJぽく見えないように社会に溶け込んでいるので見つけづらいですが(自分がそうなので)。

誰であれ、人をコントロールできるなどと思い上がらないほうがいい

これは人間界で生きる上で一番初めに教わるべきことだと思う。

こういったことを考え整理しながらアウトプットしている時、特段怒ったり悲しんだりと、一切感情的になっていないあたり、私は本当に冷徹なENTJの気質が強いと痛感した。今までは他人事だと思っていた性格が、まさか自分の本質だったなんて、どんなどんでん返しの映画だろうか。面白すぎる。マジでおいしい展開である。

ENTJはよく冷徹だとか無慈悲だとかラスボスだとか、大げさな言葉で飾り立てられるが、別にそれほど大した存在ではない。感情がないとも言われるが、残念ながら感情はある。なぜならごく普通の人間だからだ。
再三繰り返してきたが、私はどうでもいい相手にここまで思うことはない。ここまで書いたのは、相手に期待し、支え、力になりたかったからだ。
自分にとってどうでもいい人間は無数にいる。どうでもいいかどうか考えることすらない。他人の未来まで考える暇も、そんなくだらない趣味も私にはない。だからこそ、なにも私が特別冷徹なのではないと主張しておく

人間や生物はみな利己的に生きている。誰しもがそうだ。どれほど利他的で優しい人間に見えても、それは結果的に自分の利益につながるから、すべては利己的なのだ。私はそれが悪いことだとは一切思わない。むしろ自分のためにやっていると自白している人間のほうが私にとっては印象がいい

見せかけの利他的行為は、心という実態のないモノを信仰して大衆の理想の人間像というキャラクターを演じているにすぎない。
人間には心がある?心無い奴は人間じゃない?こんなセリフを聞くたびに「何を呆けたことを」とつい笑ってしまう。

なぜなら、人間は他の生物よりも多少容量の多い思考システムを抱えているだけだからだ。そこを「脳」と呼ぶか「心」という別名で呼んでいるかの宗派の違いに過ぎない。胸に手を当てた時にその手に伝わるのは心臓という臓器が活動している様子だ。心臓は考えない。脳の命令に従って動いている。脳と心臓が優秀だからこそ、人間は「心」などという目にも見えない空想を本気で信じることができている。
心などという物質は存在しない。それが哀しいとも思わない。
単なる事実だからだ。


人間に或るのは「脳と心臓」であり、「心」とはその「通り名」である

私は物語で泣くし、人の死にも涙する。喜怒哀楽を表現できるのは心があるからではなく、脳と心臓が正常に働いているからだ。

以前芝居をやっていたこともあり、確かに自分の感情はコントロールできる。だが、それだけが理由ではない。そもそも、人間は思い込めば泣けるし、笑おうと思えば笑える。役者に限った話ではない、単なるスキルだ。
意図的に呼吸頻度を速めれば体はそれに反応して熱くなり、鼓動は早くなり、緊張という名の準備運動に取りかかる。涙が出るのは、悲しもうとしている衝動を「抑えない」という自分自身の脳の指令だ。つまりすべては自分自身の中で起きていることであり、それをあからさまに他人のせいにすることは、きわめて幼稚な行いなのだ

確かに私は、自分の気持ちというものを表に出すことはほとんどないかもしれない。だが、昔から物語や本や動物・自然・宇宙や未知の世界が大好きで、ごく普通の好奇心旺盛な子どもだった。私は何も感じていないわけではない。気持ちと行動、やるべきこと等を分けて理性的に考えるというスキルが、多くの人に比べて多少優秀なだけではないだろうか。

自分で読み返しても確かに冷たい人間みたいで笑えるが、これが本来の私で、私はこれを悪い性格だとは一切考えていない。
話は長くなったが、「ENTJは心がない」などと思考停止のバカげたことを言う人間がこの世から少しでも減ることを……あまり期待はできないものである。



2024/09/29 追記:怒りについて考えました。


必ずや活動費として還元します。或いは珈琲として血肉となります。