あくあゆの浄土真宗聞法ライフ 1
聞法体験記書き終えました
皆さんこんにちは。
二ヶ月に渡って連載させて頂きました「あくあゆの浄土真宗聞法体験記」では大変お世話になりました。まだ読んでないよという方はぜひ読んでくださいね。
さて、気持ちを改めてこれからはブログ形式で書いていきます。「聞法ライフ」と銘打っていますが、聞法以外のことも含めてゆるゆると続けて行きたいと思います。
聞法体験記の最終話で「私はまだ疑いなく聞けていないようです」と書きました。信疑決判の上では私はまだご信心を頂いていない…と結論付けました。しかし、龍雲先生にもご指摘頂いたのですが、これには注意が必要だと思います。
疑いには二種類あります。本願疑惑心と煩悩の疑いです。本願疑惑心は疑蓋(疑いのフタ)疑情(疑いの心)とも呼ばれ、これがあると六道輪廻から抜け出すことはできませんから、阿弥陀さまが取り除いてくれます。ご信心を頂くというと何か私に付け加えられるイメージがありますが、むしろ取り除かれるといったほうがしっくりときますね。
一方、煩悩の疑いとは「あいつは貸したお金をちゃんと返してくれるかな?」とか「このダイヤモンドは本物だろうか?」といった疑いで、これは死ぬまでなくなりません。
そしてこの違いを見分けることがなかなか難しいといいます。
煩悩による疑いはなくならないので、この心ばかりを見て「私はまだご信心を頂いていないんだ」と決めつけてしまうと、自分の気持ちばかり見て阿弥陀さまのおっしゃっていることを聞いていないということになってしまいます。自分の思いを横に置いて、阿弥陀さまのおっしゃっていることに耳を傾けるという聞法からズレてしまうんですね。
煩悩による疑いはなくならないということを聞いて、疑いなく聞けるようになったご同行もいらっしゃいます。それまでは煩悩による疑いに目が向いていたんですね。だからとても大切なところだと思います。
さて、私はどうだろう?
まだ疑いなく聞けていないと締めくくりましたが、その思いに固執することなく注意深く見ていきたいと思います。
南無阿弥陀仏(-人-)
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