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あくあゆの浄土真宗聞法体験記 (7)

心境の変化につながったもの


前回、心境の変化のきっかけとして法話会での気付きを挙げました。
煩悩の疑いでない、疑い心なく聞けるというのがわからないという思いこそが自分目線
というところです。ここは龍雲先生の聞法道場でも繰り返し聞かせて頂いているところです。

以下のように、テーマを決めてスレッドを立てて話し合っています。


浄土真宗の聞法道場
【「聞く」ということについて】
みなさま、今回は「聞く」ということについて、書き込んでいただければと思います。
 
まず、以下の2枚の画像を見て、聞くということについて、ご自分の考えを整理してみてください。
 
そして次の内容について語り合いましょう。
語り合う内容は、
・浄土真宗においては、何を聞くべきか
・浄土真宗においては、どう聞くべきか
・何故聞くのか?
・聞いたらどうなるか
・その他、自由に。
についてです。 
 
「聞く」ということは、色んな角度から書けるテーマです。あまり頭で考えすぎず、しゃっちょこばらず、思われるところをそのまま書きこんでみてください。軽い気持ちで書いた文章から、意外な展開があるものです。
 
今回も下の流れで行きたいと考えております。
 
1、メンバーのみなさまに書き込んで頂く。書き込む場所はこのスレッドです。
 
2、ある程度の書き込みが行われたら、自分以外の人の書き込みを読んで気づいたことをコメントしてみてください。
 
3、私が各人のスレッドを立てますので、そこで個別にやりとりをしましょう。
 
 
みなさま、よろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏

浄土真宗の聞法道場より


浄土真宗における聴聞とはAのイラストのように阿弥陀仏の本願を聞くことです。しかし、「そうは言っても、どうにも信じられない」「どうすればいいのか分からない」「おとぎ話にしか聞こえない」などとBのイラストのように、自分の思いにばかり耳を傾けてしまっているのです。このワークは自分の思いに耳を傾けるのではなく、阿弥陀仏の仰っていることに耳を傾けるための練習なんですね。

浄土真宗の聞法道場がいつからスタートしたか確認してみたら、2019年の7月でした。立ち上げ当初からのメンバーでしたので、2年以上自分の思いにばかり耳を傾けていたということになります。

もちろん繰り返しワークしていたわけですから、頭ではじゅうぶん分かっているはずなんですが、まるでロープでぎちぎちに巻かれているように自分の思いから目を離せないような感じでした。

聞法道場でのやり取りを時系列順に並べてみます。


=2年前=
あくあゆ : 聴聞させて頂き、お念仏を称えさせて頂いても疑い無く聞くことが出来ない心を晴らそうとしています。
Ryuun Kubo : 疑い無く聞くことができない心、、、
もしかしたら逆方向に注目しているのかもしれないですね。

この頃は完全に自分の思いに耳を傾けています。

=1年前=
あくあゆ : 最初の頃は、ああしてみよう、こうしてみよう、こんな風に工夫して聞いてみようと考えていたように思います。
とにかく何かをしなくては、怠惰な私は何でも聞いたり読んだりしなくてはいけないと焦っていました。
自分の心の中をのぞいて、信心が頂けていないからこのままじゃ駄目だと思っていました。
今だって疑いがなくなったとかご信心が頂けたとかそんなことはちっとも分かりませんが、そんな私だからこそ救って下さるのが阿弥陀様なのだと教えて頂きました。
今は仏願の生起本末を繰り返し聞かせて頂き、私を救う功徳が詰まった南無阿弥陀仏を称えさせて頂くこと、阿弥陀様の視点で私を見つめることを意識しています。
(ほとんどはのほほんとした日常を送っていますが··· )
一年経っての変化を振り返ってみました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
Ryuun Kubo : あくあゆさん、それはとても良い変化です。
「怠惰な自分では救われない」というのは、聖道門の考え方なんですね。もっと素晴らしい自分にならないとダメ、という。
ですが念仏の救いは、南無阿弥陀仏をとなえたら救われる、というもの。
なので善導大師も法然聖人も「念仏となえただけで救われるわけがない」と他師から非難されました。
「念仏となえただけで救われるわけがない」ではなくて、まさに「念仏に救う力がある」という教えなんですね。

1年経ってだいぶ理解が深まってきています。形だけでも阿弥陀仏の方を向こうと頑張っています。

=半年前=
あくあゆ : 南無阿弥陀仏を称えている私には阿弥陀様の救いが届いているということですが、例えで言えば以下のようなことでしょうか?
砂漠をさまよって今にも死にそうな時プールに放り込んでもらった状態。しかし私は「喉が渇いて死にそうだ!」と叫ぶばかりでプールの水を飲もうとしない。
火事でマンションのベランダからぶら下がり避難している。すると救助隊が大きなマットを広げてくれてくれて「早く飛び降りろ!」と大声で呼びかけてくれている。
しかし私は「熱い!落ちる!」としがみついたまま手を離そうとしない。
いずれも救いの手が届いているのに受け入れようとしない状態なので、このままでは死んでしまう(救いを頂けない)
こういう理解でいいのでしょうか?
Ryuun Kubo : そうですね、、、
どちらかというと、合格通知とかラブレターに近いような気がします。
例えば、あくあゆさんの子供さんに合格通知が届いたとしますね。それでも子供さんが「不合格だったらどうしよう」といっていたら、どう声をかけますか?
あくあゆ : そうですね、合格通知を見せて「ほら、本当だよ」と言うでしょうね。でも、合格した実感がないと言われたとしても、本当に合格している訳ですから、笑って大丈夫だよ、間違いないよと言うでしょうね。
Ryuun Kubo : その例えでいうと、合格通知は何に当たると思いますか?
あくあゆ : 南無阿弥陀仏だと思います。
Ryuun Kubo : そうなりますね。
では合格通知の封筒の中には何が書かれていますか?(南無阿弥陀仏とは何ですか?)
あくあゆ : 「南無阿弥陀仏を称えるあなたは極楽浄土に生まれて仏に成る」と書いてあると思います。

阿弥陀仏の救いが届いているとはどんなことか、頑張って理解しようとしています。


聞法道場を通して聞法を続けていますが、阿弥陀仏の声に耳を傾けるということは理解できているけれど、どうも腑に落ちないというかすっきりできない状態が続いていました。それが私が体験発表をした法話会のあたりから変わってくるのですが、その法話会の前に聞法道場で大事なやり取りがありました。


=法話会の少し前=
あくあゆ : 不審が出るたびにその不審は救いのさまたげにはならないと教えて頂いたので「なるほど、私のこの思いは救いのさまたげにならないのだな」と思うようになりました。
逆に不審が出そうになると無意識のうちに「さまたげにならないのだな」と思って処理してしまうので、不審にならないというか、気づかないパターンが多いようです。
座談会で他の方が「このような不審があります」と話されるのを聞くと、「それもお目当てなんだな、さまたげにはならないのだな」と思う気持ちと、「そういう思いが出てくることもあるなぁ」と気づくことがあります。
「救われた実感がない」「はっきりとしない」「地獄行き、極楽行きが分からない」様々な思いが相変わらずぷかぷかと浮かんできますが、阿弥陀様は全てお見通しで、こんな私だから救って下さるのだなと、なんだか自動的に思考パターンが働いて処理しているような感じがします。
Ryuun Kubo : >>座談会で他の方が「このような不審があります」と話されるのを聞くと、「それもお目当てなんだな、さまたげにはならないのだな」と思う気持ちと、「そういう思いが出てくることもあるなぁ」と気づくことがあります。
確かにそんな不審が出てくるというのは、お目当てともいえますね。ですが違う角度からいえば、そんなお粗末な者を救うのはとてつもなく大変なんですね。当たり前の話ではありません。
これは借金に例えるのが分かりやすいかもしれません。たとえば100万円の借金をしている人を救うのと、100億円の借金の人と、どっちが救うのが大変か? というと、後者でしょう。肩代わりする額がケタ違いだからです。
では仏説に感動して出家しマジメに修行する衆生と、肉食もやめずに「救われた実感がない」「はっきりとしない」「地獄行き、極楽行きが分からない」という鈍感な衆生と、どちらが救うのが大変だと思いますか?
あくあゆ : 鈍感な衆生を救う方が大変だと思います。
Ryuun Kubo : では、もしも阿弥陀仏の本願がなかったら、そのような衆生は死んでからどうなると考えられますか?
あくあゆ : 自分が作り続けた悪業によって、苦しみの世界に生まれると思います。
Ryuun Kubo : あくあゆさんの死後の行き先は、どこですか?
あくあゆ : たぶん、地獄行きだと思います。
Ryuun Kubo : では、まわりを見回して、何か死後の頼りになるものはありますでしょうか?
(中略)
Ryuun Kubo : なぜお念仏が頼りになるのでしょうか?
あくあゆ : 南無阿弥陀仏には私を救うための功徳が詰まっているので、南無阿弥陀仏を称える私は極楽浄土に生まれて仏に成ると阿弥陀様がお約束されているからです。
Ryuun Kubo : ではあくあゆさんを救うために、あくあゆさんのどの罪を肩代わりして修行されたか、具体的にあるだけ挙げてみてください。
あくあゆ : 生き物の命を奪っているのに当たり前だと思っている。
思い通りにならないと腹が立つ。(前を走っている車が遅いとか)
自分や家族が良ければあとはどうでもいい。
面倒なことはしたくない。
欲望のおもむくままに過ごしたい。
因果の道理がわからない。
ご法話を聴聞しても何も響かない。
法蔵菩薩のご苦労を聞いても何も響かない。
南無阿弥陀仏の功徳を信じられない。
そもそも仏法がおとぎ話に聞こえる。
Ryuun Kubo : そのような衆生で仏道修行をしていない者は、死ぬとまた六道輪廻すると仏教では説きます。
ですが、私の勘違いかもしれませんが、あくあゆさんの文章からは「まあ、そうはいってもいつか助かるだろう」というようなニュアンスを感じることがあるのですが・・・そのあたりはいかがでしょうか?
あくあゆ : ほんの少しだけあると思います。
それよりも、このまま助からないかも知れないという思いのほうが大きいと思います。
Ryuun Kubo : 仏教的には、その「このまま助からない」という方が正しいです。
上でリストアップしていただきましたが、あのような者は死ねば六道輪廻する、つまり助からない者だからです。
ですのでご自分は何者かというと、「助からないかもしれない者」というよりは、「助からない者」ということになります。
その違いは明確にしておくのがおすすめです。
このあたりはいかがでしょうか?
あくあゆ : 「助からないかも知れない者」と「助からない者」
似ているようで全然違いますね。
私はまだその違いの部分にすがっているような気がします。
Ryuun Kubo : ここは聞法を正確にするか不正確にするかの違いですので、単に正確に把握していただくだけでけっこうです。
仏教的に見れば、リストアップされたあくあゆさんの姿は、これからも六道輪廻を繰り返している助からない者だ、というだけのことです。煩悩と罪悪を抱えていてしかも仏道修行していないので助からない、ということですね。
内容としてはシンプルだと思うのですが、どうでしょうか?
(中略)
あくあゆ : 先に書いた内容を確認しながら訂正していきたいと思います。
>不審が出るたびにその不審は救いのさまたげにはならないと教えて頂いたので「なるほど、私のこの思いは救いのさまたげにならないのだな」と思うようになりました。
逆に不審が出そうになると無意識のうちに「さまたげにならないのだな」と思って処理してしまうので、不審にならないというか、気づかないパターンが多いようです。

さまたげにならないけれど、法蔵菩薩様にご苦労をおかけしたことを考えていないので、自分の罪業を軽く考えています。

>座談会で他の方が「このような不審があります」と話されるのを聞くと、「それもお目当てなんだな、さまたげにはならないのだな」と思う気持ちと、「そういう思いが出てくることもあるなぁ」と気づくことがあります。

ここも法蔵菩薩様のすさまじいご修行のことを考えていないから簡単に考えて聞き流しています。

「救われた実感がない」「はっきりとしない」「地獄行き、極楽行きが分からない」様々な思いが相変わらずぷかぷかと浮かんできますが、阿弥陀様は全てお見通しで、こんな私だから救って下さるのだなと、なんだか自動的に思考パターンが働いて処理しているような感じがします。

煩悩と罪業を抱えていてしかも仏道修行していないから助からない者なのに、まるで他人事のように考えています。
まるで他人事のように考えてしまう私は法蔵菩薩にどれだけのご苦労をおかけしたのかを聞いていくこと、そんな私に阿弥陀様がなんとお約束してくださっているのかを聞いて行きたいと思います。
南無阿弥陀仏(-人-)
Ryuun Kubo : はい、そのように聞いてみてください。
これまであくあゆさんとは長いことやり取りしてきましたが、何かが抜けているように感じることがありました。おそらくここだと思います。
たとえば、あるAさんの借金を、親友Bさんが肩代わりしてくれるとしましょう。
ですがそのとき、Aさんが「よし。お前が代わりに払ってくれるんだから、いくらおれが借金してもゼロみたいなもんだよな」といって当たり前のような顔をしていたとします。
それは親友Bさんの思いやりを正しく受け取っているといえるでしょうか? Bさんの思いやりの意図を無視していないでしょうか。
そのように、「お目当てだから別にいいんだ」という態度は、造悪無碍の異安心にまでつながってしまうものです。
「お目当てだから、妨げにならないから、別にいいんだ」ではなくて、
・「阿弥陀さまのお目当てになるほど罪悪まみれなんだ」
・「仏様から見れば、迷っていくしかない、0点の存在なんだ」
・「しかも、今後も罪悪を作り続けるしかできない存在なんだ」

ということです。
聞法はあくまでも、阿弥陀さまのご苦労に頭を下げて聞かせていただくもの。
自分の罪悪やお粗末さをスルーしたり肯定したりするのではなく、それらのために法蔵さまがすさまじいご苦労されたことを聞いていっていただければと思います。
あくあゆ : 大切なところを教えていただきありがとうございます。
自分の罪業やお粗末さでどれだけ法蔵菩薩様がご苦労されたのか聞かせて頂きたいと思います。
Ryuun Kubo : はい、そうしてみてください。
自分という衆生を救おうと考えてみると分かりますが、とてもじゃないが大変すぎて手に負えませんよ。殺生だけでも何万回も死ぬような修行をしなければならないし、怒りや愚痴や嫉妬などの意業も次々に作っていく衆生ですので。
そうやってご自身を観察すると、その分、法蔵菩薩さまのご苦労が見えてくるかと思います。
南無阿弥陀仏


この龍雲先生とのやり取りと、体験談を発表した法話会が私の心境を変えていったように思います。

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