舞台「夏の砂の上」感想
舞台「夏の砂の上」を観た。
受け取り方や、受け取るものの重さは人によると思うけど、最後は凝縮された心地よい重みが残るような、そんな物語だったように思う。
きっと観る人によっては難しく感じる。私も最初はもしかしたら難しい舞台なのかもしれないと思った。でも思い出す。舞台はときおり日常であることを。そこで生きている人たちを観ながら、少し笑って、少し泣いて、これはそんな人生の一部なのだ。人生は難しいようで単純だ。そして単純なようで難しい。凝縮されたそれを観る機会が、この舞台だった。
もちろんこれは戯曲で、フィクションだ。しかしそこにいた治さんや優子たちは、あのうだるような暑さの町にいた、或いは今もいるように思えてならない。この世界で起きた、起こったほんの数ヶ月の、ほんの片隅を覗き見たような感覚で、そこから受け取れるものもまた、私たちの日常に垣間見えるものばかりだった。
パンフレットにあるコメントの中で、松田正隆さんがこんなことを書いていた。
「治の妻、恵子が窓の外の港の景色を見て、いかにそこが荒廃していたかに気づく場面がある。(中略)人生はそのように取り返しのつかないことの繰り返しで、そのことにあらためて気がつき、自らの迂闊さに驚くのだ。」
ここを読み、なるほどまさに今回の舞台そのものだと感じた。恵子だけではない。治さんも、優子も、阿佐子も……登場人物すべて、何かを失くして生きていた。後悔はしたのかもしれない。しかしそれを忘れたり、置き去りにしたり、見ないふりをしている。それを観ながらも流せてしまうのは、私も同じだからだ。生き様という表現だと言い過ぎで、ただ彼らの生きている様子は、思い出せたり、すんなりと想像ができるほどに身近なものだった。
観劇が終わり思い返すと、あの閉鎖的な居間で繰り広げられる舞台に様々な登場人物がいた。私たちはその人たちのほんの一部、一かけらにも満たない部分を観て、その人を把握した気になれている。これはすごいことだ。登場人物を把握したような気になることで、舞台の奥行きがまるで違ってくる。
優子、恵子、阿佐子、陣野、持田、立山、茂子。舞台を観終えたあと、私たちはきっとそれぞれの登場人物に対して、おそらくこんな人だと語ることが出来る。当然自分の主観が混じるだろうが、きっとこんな人で、なんなら今はこうしてるんじゃないかとか、昔はこうだったんじゃないかとか、そんな勝手な想像すらできる気がする。
しかし、私にはひとりだけ語れる自信が無い人がいる。主人公である、一番長い時間観たはずの治さんだ。それは田中圭の演技が悪かったとか、決してそういう話ではない。むしろ素晴らしかった。なんなら冒頭の治さんだけを観た状態なら、彼について一時間は語れる気がする。しかし舞台が進み、観れば観るほど、治さんだけがぼやけていくのだ。
治さんは、ずっと渇いていたように思う。
登場から妻が離れ、家族に利用され、恩人が亡くなり、友に裏切られ。それをずっと受け止め続けた治さんは、声を荒げたりもしていたけど、根本はフラットだったように感じた。僅かに上がったり、沈んだり。そんなふうに全部を受け止めて、渇いたまま。渇いたままの治さんの心が少しだけ潤ったり、さらに渇いたりする、そんな瞬間を観た。
治さんと優子
突如阿佐子により治さんの元にやってきた優子。阿佐子が「本当に良い子なのよ」と紹介するも、バイトをサボり、煙草を吸い、伯父のいない間に彼氏を連れ込む今どきの子だった優子。そんな優子を、もしかしたら母親である阿佐子よりも理解したかもしれない治さん。二人の関係は、舞台を観ている間ずっと心地が良かった。だんだん遠慮しなくなっていったであろう優子の態度に安心したし、最初「優子ちゃん」と呼んでいた治さんが「優子」と呼んでいる様子にも安心して、しかしお互い最低限の気は遣いながら生活していて、心の内を曝け出すようなシーンには胸が熱くなった。徐々に近付いていく二人の距離はもどかしくも愛おしくて、「私、おじちゃんと一緒ならどこだって行くよ」と言った優子の言葉は、その瞬間のものであっても嬉しかった。どうか治さんにも、じわじわとでいいから刻まれていて欲しい。
包帯
舞台の上で三つの包帯が出てきた。茂子と、優子と、治さん。内二つはひらひらと、傷を覆いきらぬまま去って行った。その包帯を巻いた茂子と優子の傷は、いつか治るであろう傷だ。ひらひらと舞う包帯が、傷の残像をこの居間に残していった。
三つ目の包帯は治さんだ。左手を覆う隙間ない包帯。全て隠しているそれは、もう治らない傷。強烈だった。だけど治さんは、「残念やったよ」と渇いたまま。覆われたそれは、治さんの心のような気がした。
優子の心
優子が望遠鏡で見た立山さんは、いつの立山さんだったんだろうと考えた。過去? 未来? パラレルワールド? と、様々に浮かぶも、最終的には優子の想像だったのかもしれないと思う。立山さんは大学生だ。優子は高校にさえ行けなかった。優子にとって立山さんは、自分とは全く違う場所にいる人だったはずだ。それはきっと黒のローレルを乗用車にできて、お手伝いさんがいるような裕福な家庭。優子の想像した、大学にまで難なく行かせてもらえる家庭。窓の外を見ていた立山さんの目に映る景色が理解できなくて、理解したかった優子。立山さんの家に呼ばれたとき、その景色は想像していたよりも普通で、それなのにやっぱり自分には手が届かないもので。そんな現実を目の当たりにした優子は、きっとハンバーグなんか喉を通らなかった。それを吐きだした優子に対する、治さんの「よかたい。しょんなかたい」がずっと優しくて。最初に観たときから、そこがずっとずっと優しくてあったかくて、とても大好きなシーン。
そのあと訥々と語る優子の吐露。夢だと語った優子の話は、きっといつかの記憶だ。お母さんの相手の顔を思い出せなくて、思い出さないと悪い気がして、胸が冷たくなって。それを、「足の立たない場所で泳いだときみたい」と表現していて、私まで冷やりとした。それはすごく恐ろしいことだ。怖くて、不安で、このまま沈んでしまうんじゃないか。このまま上がってこられないんじゃないか。苦しんで苦しんで、死んでしまうんじゃないか。ずっとずっと忘れられないはずだ。誰かに手を取って欲しくて、大丈夫だよって引き上げて欲しくてたまらない。そんな遠い記憶の中で溺れかけている優子を引き上げたのは、治さんが掌を叩きつける音だった。バン、バン、と規則的に鳴るその音が、優子の手を取って引っ張り上げる。ずっと続くと思っていたトンネルのオレンジの光が塗り替えられていく。静寂が似合う舞台の上で、不釣り合いのように響くその音は不思議と安心して、心地よくて。それに呼応するように遠くから鳴る雨の音はきっと、優子の心を完全に引き上げたような気がした。
光の方向
蒸し暑く、閉鎖的なあの部屋にどこからか差し込む光。
優子と立山さんが、割れてしまった鏡に光を反射させて遊ぶシーン。目を細めるほどのその強い光は、若いふたりの刹那的な希望のようにも見えた。「じゃあ治さない、ずっと」「でも治るわよ、こんなの」とちぐはぐなことを言う優子は、何もかも悟った大人のようで、駄々をこねている子供のようでもあって、そのアンバランスさに胸がツンと痛くなった。それは寂しさを知っている子どもだ。大人でいたい子どもだ。誰かを振り回すことで自分を保つ子供だ。私にも覚えがある。それを抱えている優子が愛しかった。
最後、治さんがひとりきりで残された部屋に、優子たちとのときとは違う方向から差す強く眩しい光。治らない傷を隠した包帯越しに見つめるその光の先には、治さんが見送っていった人達がいる気がした。治らない傷を抱えた街で、治らない傷を隠して、抱えて、「忘れよる」治さん。カラカラに乾いた砂の上にひとり立つ治さんが見えて、その姿がぼやけていく。
「いつでも帰って来ればよかたい」
その言葉のとおり、治さんはずっとあの場所にいる。治さんに、治らない傷と一緒にあの雨の日も残ったらいいのにと、そんな願いが浮かんだ。
「夏の砂の上」という題
渇ききった砂の上は、あの居間だ。あの場所だ。喉が渇いて仕方なくて、飲んでも飲んでも渇いてしまう。それをすっかり忘れたように、潤って溺れそうなところに行こうとする阿佐子。渇ききって、カラカラに渇いた喉に少しの水をくれた人と一緒に去った恵子。渇いていない、平気だと笑った立山。
喉が渇いて仕方ないと嘆いていた優子と、一度も嘆かなかった治さん。
舞台上で観た、様々な人の「渇き」と、いっときの「潤い」。どちらも持続せずにただ過ぎ去っていく様は、私たちがこれから生きていく世界でもある。
治さんは、過去が思い出せないという。明雄は本当にいたのかという治さんに、恵子は「おったよ」とはっきり告げた。「おまえがそう言うとなら、おったとやろ」とほっとしたように呟いた治さんは、きっとまた忘れてしまう。一瞬の潤いに微笑んでも、きっとまた渇いてしまう。「本当におったとやろか」と、ひとりあの居間で呟くのだ。治さんは渇いていることに気付かない。ただ受け止めて、そこで生きている。誰かによってもたらされる潤いに喜び、でもそれに溺れずそこにいる。誰もが求めるものを求めず、治らない傷を抱えてそこにいる治さんが、私は愛おしい。とても愛おしい。その愛おしさで私の中の渇きが、少しだけ潤った気がした。でも足りない。まだ足りない。すごく喉が渇いた。治さんや優子のように、桶に汲んだ水を飲みたい。たくさん飲みたい。
幾度も噛みしめたい、愛おしい舞台だった。