時間差読書会、ちょっと脱線。ハンナ・アーレント、『革命について』398〜407ページ

本の感想を投稿して、興味のある方からコメントをいただいて、というのをnote上でやりたいです。
この本について、また私の投稿についてnoteに(他のブログ等でも、もちろん可)書かれたらお知らせください。読ませていただきます。
そして、構わなければコメントさせていただくかも知れませんし、それを含めてまた投稿するかも知れません。
そうやって、やりとりが続くと楽しいなぁと思います。
すぐでなくていいんです。気が向いたときにコメント、1年後でも、2年後でも、それ以上でも。

はじめに

今回はちょっとインチキといえば、インチキだ。何故なら「読書会」に参加して、指導者の解説を聞きながら読んだ本だから。ついでに、ページもたまたまその読書会の箇所だったからに過ぎない。
しかし難しいので読んで来なくていいと言われて参加したし、参加したのも初めてだから、解説をどこまで理解したかも怪しい。だから自分としては今の時点でこのように理解しましたと書いて、差し支えないんじゃなかろうかと思う。
そして、ついでに参加したその読書会への感想も付け加えようと思う。

抜き書きから、私なりに要約

ジェファーソン(アメリカ合衆国第3代大統領で、アメリカ独立宣言起草者の1人)の理想とした「共和制」

ジェファーソンにとって、共和制は革命精神の救済、つまりそれ以前に反復革命が望ましいといっていた彼にとって、共和制は唯一の万能な非暴力的代案であった。

ジェファーソンは生涯の終わり頃になって、区制を非常に強調するようになり、郡を(人口100人ほどからなる)区に分割せよ等と書いている。
区は彼のいう「基本的共和国」のモデルであって、そこでは「人民全体の声が」全市民の「共通の理性によって公正かつ完全に、そして平和的に表明され、論議され、決定される」。
これらの「小共和国」によって、アメリカの全国民は精力的な(政治)活動を体験したし、アメリカ独立革命がどれほど活力を与えられたか分からない。
そしてその後も、「市民が、革命の日々に行いえたことをそのまま続け、自分の意志に従って活動し、こうして、日常的に行われるものとして公的事柄に参加することが出来る」ことをジェファーソンは期待した。

彼は、区という基本的共和国、郡共和国、州共和国、そして連邦という共和国は、権威の段階を形成し、統治のための基本的な均衡と抑制のシステムを真に構成とした。
彼自身がもっとも大切にしていた革命の記憶を明快にして、それに実体を与えた彼の晩年の思想は、実は統治形態の単なる補足ではなく、むしろ新しい統治形態にかかわるものであった。

共和制の腐敗・堕落の危険と、その防止

アメリカの共和政体に、実際に何度も繰り返し起こったことは、「代表機関が腐敗し、堕落する」ということだった。
平等主義的な共和国の場合、腐敗と堕落は、他の統治形態の場合よりもいっそう有害であり、同時にいっそう起こりやすいと思われる。

近代と社会の勃興以前には、共和政体に固有のこの危険は、たいていの場合、公的領域から起こり、私的利害の領域に侵入して、その範囲を広げようとする公的権力の傾向から生じるのが普通だった。
しかし経済が成長し、私的領域が急速に増大した近代の状況では、腐敗は私的利害が公的領域を侵す場合に起こりやすい。

私的な個人たちが公的権力を濫用することに対する唯一の対策は、公的領域そのもののなかにある。
つまり連邦の共和政府が、権力は人民に由来するという仮定に基づいている限り、それが適切に機能するには、「(統治を)多くのものに分割し、各人が権限を持つ機能を各人に厳密に配分する」必要がある。

ジェファーソンは、全ての権力が「一者、少数者、家柄の良い者、あるいは多数者の手中に」集中しているような統治は、どれも腐敗していると述べている。
従って区制は、多数者の権力を強化することではなくて、「すべての人」の権力をその権限の範囲内で強化することを目的としていた。そして「多数者」を、万人が重きをなし、また頼りにされるような集合体に解体することによってのみ「我々自身が大きな社会と同じように共和国となるだろう」としている。

共和制の目的

アメリカ合衆国の連邦政府は、権力の分散と分割、抑制と均衡がその中心に備えつけられて構成されていたので、暴君が生まれるということは、まず考えられそうにもなかった。
だから州政府や郡の行政機構は大きすぎて直接参加は不可能であり、公的領域を構成するのは人民自身ではなく人民の代表者たちであって、人民自身はずっとドアから閉め出されたままだったけれども、人民の幸福がもっぱらその私的な福祉のなかにあるのであれば、満足すべき状態といえた。

しかしながらジェファーソンが信じたように、もし革命の最終目的が自由であり、自由が姿をあらわすことの出来る公的空間の構成、すなわち自由の構成であるとするなら、全ての人が自由となる唯一の実体的な空間である区という基本的共和国こそ、実際には、このような自由の空間を人びとに与え、それを守ることを国内問題の主たる目標としたはずの大共和国の目的でなければならなかった。

感想

本の内容について

んー主宰者に言われてた通り、本当に難しい。ジェファーソンのいう独立当時のアメリカ社会の状況も、アーレントが参照した古代ギリシャの社会のことも知らないのだもの。
共和制にして、一体何をどう決めていくのかってのも見当もつかないし。
しまいには本文に書いてあることのどれが、ジェファーソンが言ったのか、アーレントが言ったのかまで分からなくなってしまった。
もう一度よく説明を聞く必要がある。

共和制について

案外面白い事が書いてあった。郡を区に分割して‥読書会の指導者が教えてくれたところによると、100人ぐらいで構成されるらしい‥住民が総出でガヤガヤと話し合って、いろいろ決めるらしい。

むむむ、何だか覚えがある、いやーな記憶が。そうだ、教会だ。私は親がカトリック信者で、自分も小さい頃から教会に連れて行かれ、日曜日に教会に来る人数ってだいたいそんなもんだった。成人して引っ越してからも別の教会に行ってたけど、そこも同じくらいだった。
カトリック教会はバチカンを頂点とするピラミッド構造だけど、当然ながら全てをバチカンが決める訳じゃない。祈りの文言などはバチカンの下請け部門であるカトリック中央協議会が決めて各教会に押しつけてくるけど、クリスマスパーティだの、バザーだの、上納金以外のカネのつかい方などは各教会で決める。
で、教会内の意思決定はどうやってされるかというと、山本七平の『空気の研究』にある通りだ。結果としては、男、年長者、保守派、多数派の意見で決まり、少数意見は考慮されない。まあ、少数意見まで配慮してたら手間やカネがいくらあっても足りないので、一つのやり方のみしか取り入れられない。そして変人である自分にとっては、いつも意に染まない決定であり、不利な決定だ。共和制なんて、やーなこった。

だけどジェファーソンが言うには、区制は「多数派の権力を強化するのでなく、全ての人の権力をその権限内で強化するのを目的と」していたらしい。
それなら私が教会で経験してたのとは違うかも知れんが、いったい何に関して、どのように「全ての人の権力を‥」なのか? そして同じ人数なら「区」でも教会でも出来るのか? いったい区では可能なのか? 区で可能だったとしても、教会で可能なのか? いやもう行かんので、どうだって良いけども。謎は深まる。

ついでに読書会の感想

一言で言うと、参加者のお行儀良さすぎ!
読書会でやる事は二つあって、それがはっきり分けられることなく混じり合って進行していく。つまり本に何が書いてあるかと、本の内容についての意見と。

もちろん何が書いてあるかは指導者の説明を待つしかなくて、その解釈は間違いでしょうってことは、まああり得ない。出席してたら成長して、そういう議論が出来るようになるとも思えない。だから、そっちはこのままでOK‥私がどうこう言う立場でもないけれども。

しかしもう一つの本の内容についての意見は、賛成反対いろいろあり得ると思う。指導者は多分アーレントが好きだから研究してるので、内容に反対じゃないかも知れないが、参加者がそうとは限るまい。少なくともアーレントの言ってることに部分的にでも批判があったりとか、指導者のご意見に反対とか、普通はあるのでないか?
ないのかなぁ? あっても黙ってるのかなぁ?
書いてある事を批判してみて、それが内容をよく理解してないための誤解だったりしたら、指導者に教えて貰えば理解が深まるじゃないかと思うのだけど。
‥それに近いことを私は初回参加でやってしまい(内容は忘れた。相手も指導者だったか、他の参加者だったかも覚えてない😅)、ちょっと個人的な反省点もありはするけれども。

更に脱線して、コミュニケーションの問題を書こう。
反省点というのは、自分の発言ややりとりで時間を取り過ぎたことだ。
これは本当に難しい。会話はキャッチボールのようなものだと思うのだけど、自分がボールを投げたら、そういう意図で言ったんじゃないけどって返答が相手から投げられてきたら、どうするか? 
違和感がある。
困惑して黙ると、相手の言った内容を理解してないと思われて、相手が更に説明を続ける。
私とすればソフトボールを投げたらサッカーボールが返ってきたようなもので、仕方ないから私もサッカーボールを返せばラリーが続くだろうけど、そもそも私がソフトボールを投げたのにサッカーボールが返ってきたらそこでキャッチボールは切れてる訳だから不本意な感じで、さてどうしようか?
自分が困ってる間にもというか、むしろ困ってるからか、相手の説明は長々と続く。んもう、相手の発言が終わったらソフトボールかサッカーボールのどちらを投げようか決めたいのに、気が散って決められないじゃないか!と、せっかく説明してくれてるのに申し訳ないがイライラしてくる。

そもそも自分が理解できてないのに、無知の知がないってヤツで、相手の言ったことが理解できないのを自分の意図と違う返答をされたと思い込んでるだけって可能性もあるけれども、相手の返答に違和感を持った時点でそれ以上聞く態勢にはもはやない。
もし相手の言ってる事が理解できないなら、私は「分かりません」と言うことにしている。その方が早いからだ。
そうでなくて私が黙るときは、相手の発言に違和感を持ったときだ。何言っちゃってんの⁉️って叫ぶ訳にも行かないからだ。
しかし今のままだと困惑して黙れば、私はその事を訊いてるんじゃないんだけどなぁって説明が延々と続き、時間をとり過ぎて、一同、おそれながら私も含めて、迷惑。
どうしたらいいんだろうなぁ‥。





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