ささやかなる累積ダメージ

責任という言葉はどうにも重っ苦しいものだと感じてしまうが、「始めた事を最後まで面倒見る事である。」と思うとまあ、それくらいなら出来そうかなという気持ちにさせられる。

ただ、世の中は小さな責任が積もっても、それは大きな責任にはなってくれないよね。というのが今回のお話。

「乱反射」というドラマ、小説をご存知だろうか、自分のした事からはじまり、色んなものが巡り巡って息子を失ってしまう父親が誰のせいで息子が死んだのか、責任の所在を求める話だ。

あれは言いたい事とは少し違うが、小さな事が積もり積もった時、誰のせいになるのか煮え切らない点で似ている。

例えば僕が大病を患ったとしよう。1000万人に1人かかるかどうかの珍しい病気だ。けど、こちらは一度治療して治る可能性はあるものとして。

一方で、僕が毎日のように風邪をひき、アトピーで肌が荒れて、腎臓には潜血が混じり、鼻炎や花粉症を併発していて、近視で……と色んな症状でいたとしよう。ただし、どれも直ちに命に別状は無いものとして、だ。

きっと前者は治療さえうまくいけば、指定難病という事で保険だったり諸々の手当が出て医療費は当初提示された額面よりも安く済むだろう。

後者は病院には足繁く通い、趣味に集中する事もなく長いこと病院に時間とお金をじわじわと払うことになるだろう。

この二つの話は恣意的で、何をもって量を測るかは難しい所だが、後者が長く長く続けばいつかは支払う額も取られる時間も前者以上になる可能性はある。

でもそれを補助する機能は前者よりは薄い。どれもありきたりな病状だからだ。

要するに、短期的に大きな障害のある弱者の方が目に見えて分かりやすく、助けてもらいやすいというお話。

勿論、前者のような人は命に関わるから助けるべきで、助かって良かったと思う例も見てきたから、それをとやかくはとても言えない。

ヘルプマークの話の折にも目に見えない人の主張を退ける人がいて、そんな事を思い出したこの頃であった。

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