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【小説】人を感動させる薬(いっぺんに読みたい人向け)
約20000字(500字/分で読んで40分程度)
「叔父さん、例の薬は用意できていますか。」
叔父のケイ博士の研究室をたずねたジェイ編集は開口一番こう尋ねた。
「叔父さんではない。
ケイ博士と呼びたまえ。
ほら、そこに置いているよ。
私としても自信作だ。
しっかりモニターを頼むよ。
報告書を期待しているからね。」
ジェイ編集は中堅の出版社に勤める編集者である。
叔父のケイ博士が『人を感動させる薬』を発明したことを親戚づてに耳に入れ、是非とも自分の担当する小説家の単行本の出版時に薬の効果を試したいとモニターを名乗り出たのだった。
その薬は液体で、ウイスキーボトル一本分くらいの大きさの遮光ビンいっぱいに入っていた。
「叔父さん、いやケイ博士、これはどういう風に使うんですか?」
「そうだな、本であれば印刷するときのインクに混ぜたり、映画館なら映画館いっぱいに香りを噴霧したりして使うといい。
ほんの少しの量でも強い香りが出て、とはいっても人間には知覚できない香りなのだが、その香りを吸い続けていると数分で強い感動を引き起こすようにできているんだ。
どうだ、すごいだろう。」
「本当にそんなことができるんですか?
とても信じられないなぁ。」
「ふん、うたぐりぶかいやつめ。
そう思うなら試しに隣の部屋でそのビンのキャップを開けたまま、新聞紙の経済欄でも小一時間読んでみるといい。
今日の朝刊の製薬会社合併の記事ですら涙なしでは読み切れない感動の名作に早変わりだ。
私は他の仕事があるからドアはちゃんと閉めて行ってくれよ。
私まで感動で涙が止まらなくなってしまったら、今作っている『どんなものでもものすごくおいしく感じる薬』の合成の邪魔だからな。」
「わかりました。
それじゃ早速試してみます。」
「それより、本当に他人に気付かれないようにばら撒くことができるんだろうな?」
「もちろん、そこは任せてください。
うまくやってみせますよ。」
ジェイ編集はケイ博士にウインクすると早速研究室を出て隣の部屋へ移動した。
来客用の椅子に腰をかけるとキャップを開けた薬のビンをテーブルに置き、テーブルの上に読み捨てられた新聞紙を手に取り読み始めた。
読み始めてしばらくはなんともなかった。
しかし、普段なら飽きて新聞紙を放り投げてしまうようなつまらない記事でもなぜか読むことをやめられなくなり、気がつけば感動のあまりジェイ編集は涙が止まらなくなっていた。
「製薬会社合併の記事がこんなに感動の嵐を呼ぶなんて、いったいどういう事だ!」
ジェイ編集は感動の余り声を上げて泣いていた。
隣の部屋からケイ博士の声が聞こえた。
「どうだ、すごいだろう。」
「素晴らしいです!
新聞の記事でこんなに感動したのは初めてです!
博士!あなたは天才だ!
そしてこの新聞記事を書いた記者も!」
「わしは天才だが新聞記者は別に天才ではないと思うぞ。
とりあえず君がその薬の威力を思い知ってくれたようでよかった。
大いに役立ててくれたまえ。
もちろん、効果のほどはしっかりレポートとして報告してくれよ。
それがその薬を譲る条件だ。」
「わかりました!ありがとうございます!ありがとうございます!」
「いいから、君もいつまでも涙と鼻水垂れ流しのままじゃ困るだろう。
いい加減ビンのキャップを閉めたまえ。」
ジェイ編集がビンのキャップを閉めると、徐々に薬の効果は薄れ、しばらくするとさっきまでの感動は嘘のように消え去っていた。
「はて、さっきまで感動していた心地よい感覚は今でもはっきり記憶に残っているのだけど、自分はいったい何に感動していたんだろう。」
とは思ったが、なにはともあれ、この薬の効果は本物だ。
こいつが上手くいけば、ジェイ編集の担当する彼の作品も大ヒット間違いなし、ジェイ編集自身も売れっ子小説家を生み出した編集者として編集長から一目置かれるようになるに違いない。
ジェイ編集の担当している若手小説家のエル氏は現在スランプ中だ。
エル氏はジェイ編集の勤める出版社が主催したエンターテイメント小説大賞で入賞し、その才能にほれ込んだジェイ編集が彼に声をかける形で作家デビューした。現在は三作目の原稿を完成させたところである。
しかし、ジェイ編集はこの小説の出来にいささか不満だ。
なぜならば、デビュー作以降のエル氏の作品の内容は、ジェイ編集が期待しているようなエンターテイメント小説とはかけ離れているからだ。
デビュー二作目の「愚かな男が次から次へと騙されて借金を重ねたあげく自殺する物語」は一部の文芸評論誌で高評価を受けたものの、本自体の売り上げはひどいものだった。
現在完成して入稿間近の三作目の内容も「病にかかった男が自暴自棄になり酒と博打に溺れ何もかも失って最後は一人で死んでゆく物語」で、ジェイ編集の期待しているようなエンターテイメント小説とはかけ離れた内容だ。
正直、救いもなければ山場もない、感動しようのないストーリーの駄作だと思う。
きっと売り上げは前作以上にひどいものになるだろう。
ジェイ編集自身もエル氏にはっきりと言ってやったことがある。
「エル先生、何度も言いますけど、今時こんなただ主人公がどんどん不幸になっていくだけの暗い話じゃ読者は誰もついてきませんよ。
もっと読者が楽しんでくれたり感動してくれるようなエンターテイメント小説を書きませんか?
先生が入賞したのはエンターテイメント小説大賞です。
編集部も先生にはエンターテイメント小説を期待しているんですよ。」
しかしエル氏の答えはいつもの通りだった。
「うるさい。
またあなたは僕に指図をするのか。
僕はもともと純文学作家志望なんだ。
僕の書いている小説は芸術であり真実だ。
人間の弱さ、醜さ、そして愚かさをありのままに僕の文章で表現しているんだ。
僕には文章を書く才能がある。
表現力もこの国のどの作家より抜きんでていると自負している。
あなたも僕に作家デビューを進めたときに、そういったじゃないか。」
「確かに先生の才能は私も買っていますよ。
文章力も表現力も同年代の作家では先生にかなう人はいないでしょう。
でも、それだけじゃダメなんです。
今時の読者は物語にカタルシスを求めているんです。
この際だから正直に言います。
二作目の小説の売り上げがからっきしです。読者にウケてないんですよ。」
「売れなくたって、二作目がいくつかの文芸評論誌で高評価を受けていることはあなたも知っているだろう。
文壇に認められさえすればそのうち有名な文学賞でもとれるんじゃないか?」
「文芸評論誌の批評はあまりあてにしない方がいいですよ。
うちの会社が広告を出しているところがほとんどですから、悪いことは書けないんです。
先生は知らないかもしれませんが、部数も少なければ広告費も安いですから営業担当がうちの会社の本を書店に置いてもらうための説得材料に使っているんですよ。
あの手のマイナーな文芸評論誌はそういう用途のものなんです。」
「だ、だとしてもだ!
僕の小説が売れてないのは今時の頭の弱い大衆が素晴らしさを理解できていないだけだ。
いずれ後の世では僕は天才としてもてはやされるはずさ。」
「私は後の世じゃなくて今、先生に売れる小説を書いてほしいんですよ。
編集者である私の会社での立場も考えてください。
二作続けてヒットが出なかったばっかりに最近編集長から白い目で見られているんですよ。」
「そんなことはあなたの問題だろう。」
「とにかく、こんな暗い話よりも、先生がうちの会社のエンターテイメント小説大賞で入賞したデビュー作のようなハッピーエンドの作品の方が近年のマーケティングデータから考えて今時の読者にはウケるはずなんです。
デビュー作の出版の時はたまたま運悪く会社に広告費と初版の部数を抑えられてしまい売り上げが伸びませんでしたが、今度こそは会社を説得してみせます。」
「ふん、あのデビュー作はネットで読んだお涙頂戴話の書き方の記事を読みかじってお遊びで書いただけのご都合主義の嘘っぱち小説さ。
現実はあの小説みたいに何もかも都合よくいったりしない。
二度とあんな読者に媚び媚びで真実のかけらもない低俗な娯楽小説なんて書くものか。
自分でも卑しいことをしたもんだと後悔しているよ。
純文学小説こそ僕の本領だ。」
「今時小説のジャンルが純文学作品かエンターテイメント作品かなんて読者は誰も気にしてませんよ。
そもそもジャンルなんて作家個人が決められるものではありません。
読者は単純に面白かったり感動するものを求めているんです。
今回の作品も今からでもいいのでせめて何かしら救いのある結末に書き直してもらえませんか?
たとえば、病で死期を悟った主人公がもう一度再起して、たとえ最後は死んでしまうにしても、何かしら希望を手にするなり、自分の過去の間違いに気付くなりしてから終わる形にするとか。」
そうジェイ編集は食い下がったがエル氏は全く取り合わない。
「断る!
それこそまったく現実味のない結末じゃないか。
心の弱い人間が弱いまんま終わることにこそ人間の真実があるんだ。
この小説はすでにこれで完成だ。
今更書き直しなんてできるもんか。
僕はこの作品を純文学作品として世に送り出す。
そして世間の連中に人間の真実の姿を突き付けて価値観をひっくり返してやるんだ。」
その後もジェイ編集はなんどもエル氏を説得したが彼は効く耳を持たなかった。
「はぁ。エル先生には困ったもんだ。」
エル氏の住むアパートを出たジェイ編集は深いため息をついた。
実のところ編集長からは次の三作目が二作目同様にまったく売れないようだったら、エル氏との契約を切ると言われている。
そうなれば、担当編集の責任でもあり、ジェイ編集の出世の道は危ういものになるだろう。
エル氏のわがままには困ったものだが、それでもジェイ編集はエル氏をあきらめたくなかった。
エル氏の自宅から会社に戻る途中、ジェイ編集は公園に立ち寄るとベンチに座り、一冊の本をカバンの中から取り出し、広げた。
それはエル氏のデビュー作の単行本だった。
そしてそれを読み始めた。
エル氏のデビュー作の大まかなあらすじは次のとおりである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主人公は戦力外通告を受け目標を失ったプロ野球選手である。
妻と一人の息子がいる。
球団を追われた主人公は自暴自棄になり始めるが、そうこうするうちに息子が白血病に侵されていることが発覚する。
不幸に追い打ちをかけるような絶望が主人公を打ちのめすが、病床にありながらも明るく振る舞おうとする息子の姿に心を打たれ、息子の治療費のため、そしてもう一度父親の雄姿をみてみたいという息子のために、主人公はプロ野球の舞台に再挑戦することを決意する。
必死の特訓の甲斐あって、プロテストに合格し、再び主人公はプロ野球の打席に立つ。
復帰した主人公はその年見事に活躍し、それによって息子の治療費も稼ぐことができ、息子の白血病も寛解する。
ラストでは息子が父親に、自分も父親のようなプロ野球選手になることが夢だと告げる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者を感動させるためのセオリーにのっとった、ありきたりな物語だと思う。
物語の構成もプロットもきっと今までにパターンとして使い古されたものだと思う。
しかし、エル氏のデビュー作はジェイ編集がこれまで読んだどの小説よりも彼を深く感動させた。
ジェイ編集はその理由を、エル氏の文章力、とりわけ表現力や心理描写の巧みさによるものであると分析した。
エル氏には才能がある。
たとえありきたりなストーリーであっても感動作品を作るためのセオリーに乗せれば、彼の筆でストーリーの力を最大限まで引き上げることが出来るだろう。
いずれこの国を代表するエンターテイメント小説家に成長してもおかしくない。
そうジェイ編集は考えている。
エル氏という才能を発見したとき、ジェイ編集は彼をエンターテイメント小説家として今後育てていきたいと思った。
そしてまずは、入賞作をデビュー作として出版し、世の人に広く知らしめたいと思った。
しかし、ジェイ編集の思いとは裏腹に、出版社はエル氏のデビュー作の広告費と初版発行部数をジェイ編集が希望するほど多くしてくれなかった。
その理由は出版社が、エル氏と同じエンターテイメント小説大賞で見事大賞を勝ち取ったエイチ氏のデビュー作を大々的に売り出すため、そちらに大きく広告費や初版部数のリソースを割いたからだ。
どんな名作であっても、不十分な広告のために多くの人の目に触れることがなければそのまま埋もれてしまう。
結局、エル氏のデビュー作は当初ジェイ編集が期待したほど売れることはなかった。
ジェイ編集はせっかくのヒットのチャンスを逃す原因となった出版社の決定を、今でも悔しく思っている。
エル氏にエンターテイメント小説を書かせ、ちゃんと広告を打って売り出せば必ず売れるはず、という確信がジェイ編集の中にはある。
しかし、いざ編集者としてエル氏の担当になってみると、肝心のエル氏は純文学小説へのこだわりが異常に強い男だった。
ハッピーエンドで終わるようなエンターテイメント作品のことをご都合主義の嘘っぱち小説と呼んで毛嫌いしており、いくらジェイ編集が説得してもそういった小説を書こうとしない。
小説の内容も、表現や心理描写に凝るばかりで、ストーリー自体は実につまらない。
これでは出版社のエンターテイメント小説大賞の入賞作家として売り込もうとしても、彼の書く小説の内容はエンターテイメント作品とは程遠いし、いつまでたってもヒット作なんて出せないだろう。
一方、同じエンターテイメント小説大賞で大賞に輝いたエイチ氏はエル氏とは対照的に、デビュー作、二作目と順調に売り上げを伸ばしている。
このまま彼が安定してヒットを飛ばし続けていれば会社はエル氏のことを不要と判断し、エル氏は結果を出せないまま間違いなく出版社から契約を切られることだろう。
そんなことになればエル氏をデビューさせたジェイ編集も何かしらの責任を取らされ、出世は危ういものになる。
現に、二作続けて結果が出せていないジェイ編集に対して、最近の編集長からの風当たりは強くなってきている。
ジェイ編集がエル氏を出版社につなぎとめておくため、そして一度は失ったチャンスを取り戻すため、何か手はないかと頭を悩ませていたある日のことだった。
親戚のつてで叔父にあたるケイ博士の研究している『人を感動させる薬』の噂を耳にし、ジェイ編集はすぐさまケイ博士に電話をかけて交渉した。
そして、薬を世間の人々にバレないように実際に使ってみて、その効果をレポートとして報告することを条件に、いくらか譲ってもらえることになったのだ。
ジェイ編集は完成したエル氏の作品の原稿データが入ったUSBメモリと、『人を感動させる薬』を混ぜたインクの缶がたくさん入ったバッグをもって印刷会社を訪れた。
原稿データを提出したらその足で印刷工場に足を運び、印刷機の担当者に
「験を担いで神社で願をかけてもらったインクです。うちのエル先生の本を印刷するときは必ずこのインクを使うように。」と言い含めて『人を感動させる薬』を混ぜたインクの缶と、いくらかの現金をこっそり渡した。
印刷機の担当者は一瞬不思議そうな顔をしたが、思わぬ臨時収入に気を良くしたのか、インクについて深く尋ねることもなく快く応じてくれた。
その日から、印刷機はエル氏の新作の単行本を、小気味良いリズムで音を刻みながら次から次へと吐き出し始めた。
そしていよいよ、エル氏の三作目が本屋に並んだ。
デビュー作、二作目と売り上げが少なかったことから、広告はほとんど打たれず、本屋での扱いも実に地味なものだった。
三作目の発売開始から3日くらい経って、ジェイ編集がやっぱり今回もダメかと思い始めていたころのことだった。
とある文芸評論誌で絶賛されたのをきっかけにSNSを中心に原因不明の不思議な感動をよぶ小説として口コミで話題となりはじめ、それに伴って徐々に売り上げも伸びていった。
本屋では売り切れが続出し、発売してひと月もたたないうちに増刷が決定した。
ジェイ編集は増刷のたびに博士の薬を混ぜたインクの缶を印刷工場にもっていき、印刷機の担当者に自分の持ち込んだインクでエル氏の本を印刷させることを徹底した。
おかげで売り上げはその後も順調に伸びていった。
印刷機の担当者は、増刷のたびにチップが増額されていくので、今ではジェイ編集の持参するインクで本を印刷することを快く承諾してくれている。
そして、エル氏の三作目は各地の書店でベストセラーとなり、あっという間に大ヒット作品となった。
ジェイ編集がエル氏の住むアパートに三作目の売り上げの報告に行くとエル氏は得意げに語った。
「ほらねジェイさん。
世間の連中はあなた以上に僕の才能をちゃんと理解しているみたいだ。
心配しなくたってちゃんと僕の本は売れているじゃないか。
今回は文芸評論誌だけじゃなくてネットでも大絶賛の嵐だ。
ほら、このバズり具合を見てごらんよ。
僕のアカウントのフォロワーだって今回の作品の発売前と比べると100倍くらいに増えたんだぜ。」
のんきに喜ぶエル氏の姿に、ジェイ編集は少なからずイラっとした。
ジェイ編集は、今回のヒットは全てエル氏の力ではなくてジェイ編集の影の努力のおかげなのだということをぶちまけてやりたかった。
そして、エル氏が実は出版社から見捨てられそうになっていたことや、エル氏の作品が売れているのは読者が本のインクにしみ込んだ『人を感動させる薬』のにおいをかいで無理やり感動させられているためであることや、何より増刷のたびに自分が印刷工場に足を運んではワイロと一緒に薬の入ったインクを差し入れているからであることを言ってやりたくて仕方がなかった。
しかし、ジェイ編集は喉まで出かかった言葉を無理やり押し殺して我慢することができた。
なぜなら、今は本が売れていることの方が重要だからだ。
エル氏ののんきさはたしかに鼻につくが、今の状況は何も悪くはない。
むしろ喜ばしい。
そのうち、エル氏の三作目の小説を映画化したいというオファーが広告代理店から出版社に舞い込んできた。
またとないオファーに出版社の経営陣は二つ返事で了承した。
たくさんのスポンサーから出資金が集められ、製作委員会が結成され、スタッフも豪華なメンバーが集められた。
ジェイ編集とエル氏の周りの環境も少しずつ華やかな方向に変化し始めた。
映画化の話を聞いてますます得意になるエル氏とは対照的に、ジェイ編集は憂鬱だった。
これまでは『人を感動させる薬』を本のインクに仕込んで読者を感動させることに成功してきたが、いざ映画館の観客を相手にするとなると、エル氏の作品の内容自体には何も感動する要素が無いだけに、馬脚を現すことになるのは間違いない。
仮に、映画が失敗したところで製作チームのせいにすればいいだけだといえばそれまでなのだが、映画製作という大金が飛び交い欲望が渦巻く華やかな世界に初めて触れてみて、だんだんジェイ編集にも欲がわいてきていた。
小説に続いて映画もヒットさせればもともと崖っぷちに立たされていたエル氏の立場は安泰となり、ジェイ編集も敏腕編集者として名をはせることができるだろう。
さらには、今をときめく著名な芸能人とお近づきになれるかもしれないし、スポンサーのおごりでいい思いもできるかもしれない。そこにはきっと、今までの自分がみたこともないような世界が広がっていることだろう。
せっかく今までにない大ヒットのチャンスをつかんだのに、ここでその流れを途切れさせてしまうのはもったいない。
そこでジェイ編集は行動に出た。
製作委員会に映画の公開方法について自分が総合プロデュースを行うことを提案したのだ。
提案の内容はエル氏の作品の公開を体験型上映システムに対応した映画館のみに限定すること、そして体験型上映システムにおける香りの演出をジェイ編集が監修することだった。
体験型上映システム対応の映画館とは、映画の内容に合わせて、座席が揺れたり、香りや熱や水しぶきが出る仕掛けとなっている映画館のことで、ケイ博士の人を感動させる薬を散布するにはうってつけだ。
本来、出版社の一介の編集者に過ぎないジェイ編集の申し出など広告代理店やスポンサー企業からなる製作委員会に聞き入れられるはずはないが、ジェイ編集は提案書を作成して製作委員会のメンバーにプレゼンして回った。
最初はジェイ編集の勤める出版社の社内から、そして広告代理店の担当から重役、そして最後はスポンサーの集まる会議で、そのすべてのプレゼンでジェイ編集はことごとく承諾をとり、ついには提案を通してしまった。
ジェイ編集にそんなことが可能だったのは、プレゼンのたびに配布した提案書のインクにこっそり仕込んだ『人を感動させる薬』のおかげだった。
このようにして、エル氏の作品は全国の体験型上映システム対応の映画館のみで限定上映されることとなり、ジェイ編集には噴霧される香料の製作チームの指揮権が与えられた。
製作チームで作られた香料は全国各地の映画館に配られ、上映中に噴霧される。
かくして、ジェイ編集は全国の映画館で『人を感動させる薬』を人知れずばら撒く準備を見事に整えたのである。
ジェイ編集の作戦は見事に的中し、エル氏の作品を上映する映画館には連日長蛇の列ができた。
長蛇の列になる理由は単純で、体験型上映システムに対応している映画館の数が限られているからというだけの話だ。
しかし、世に広く名の知られていない新人小説家の映画が行列のできるほどヒットすること自体珍しく、マスコミはこぞって取り上げた。
映画が話題となった相乗効果として小説の方の売り上げもさらに伸びていった。
最初にケイ博士からもらった『人を感動させる薬』の量が少なくなってくると、ジェイ編集はこれまでの薬の効果のほどをまとめたレポートを携えてケイ博士の研究室に足を運び、薬を補充してもらった。
ジェイ編集が忙しい日々を過ごすうち、世間はいつのまにか年の瀬を迎えていた。
ジェイ編集の出版社では年末になると、ホテルのホールにて作家を含めた出版社の関係者を集めての忘年会が催される。
皆がグラスを手に乾杯したあとは、今年活躍した作家らが壇上でスピーチすることになっており、エル氏も初めて今年活躍した作家の一人としてスピーチした。
エル氏のスピーチ原稿を事前にジェイ編集が確認した時、エル氏の自信過剰な性格から予想された通りかなり尊大な内容になっており、さすがにジェイ編集は、これはまずいと思った。
エンターテイメント小説大賞でデビューしたくせにエンターテイメント小説をこき下ろすような内容で、これは他の作家に失礼だとジェイ編集が怒ると、さすがのエル氏も普段めったに怒らないジェイ編集の剣幕に驚き、しぶしぶスピーチの内容を謙虚なものに修正した。
おかげでエル氏のスピーチは特に会場に波風を立てることもなく、ジェイ編集はホッと胸をなでおろした。
エル氏の後にはエイチ氏もスピーチをした。
昨年もヒットを飛ばしてスピーチを求められていただけに、二年連続ともなると堂に入ったもので、エル氏と同年代の若手作家ながら出版社の看板作家の一人としての貫禄が身についてきたような気がする。
エイチ氏はスピーチを終えると、エル氏とジェイ編集の下にやってきた。
エイチ氏はちょっと酔っぱらっているらしく、赤ら顔でエル氏に話しかけてきた。
「エル先生、今年は大ヒットおめでとう。
あなたとは年も近いし、同時期にデビューした同僚みたいなもんだから僕もうれしいよ。
ただ、今回ヒットした先生の作品の感想を言わせてくれ。
たしかに世間のみんなの言う通り、小説を読んで感動したし、映画も観に行って感動したんだ。
でも不思議なことに本を閉じるとさっきまでの感動が嘘のように引いていくし、映画館でも観ているときはあんなに感動したのに、一歩外に出るといったい何に感動していたのかがわからないくらいなんともなくなって、狐につままれたような気分になるんだよ。
普通は何かしらに感動した時は、あとから感動した場面を思い出すと余韻があったりするんだけど、それも全くない。
僕は自分が感動した作品については、必ずストーリーをプロットに書きなおして分析してみることにしているんだけど、正直つまらなかった二作目の先生の作品と話の作り方が何も違わないし、考えれば考えるほどいったい何に感動したのかわからなくなってくるんだ。
感動する作品のセオリーにも一切当てはまらないし、普通なら絶対感動しない、むしろつまらない作品のはずなのに、それで実際感動しているんだから信じられないことだった。
でも、それだけに、先生の作品から受けた感動が偽物の感動な気がしてならないんだ。
はっきり言わせてもらう。
どんな魔法を使ったのか知らないけど、僕はこの作品を認めたくない。
いつか化けの皮が剥がれなければいいね。」
「ふん、負け惜しみなんてエイチ先生らしくない。
それは単に僕の小説が世の中の人に真実の感動を与えているというだけの話じゃないですかね。
エイチ先生の書く小説はいつも感動する話の作り方のルールの枠を超えないご都合主義のハッピーエンド作品ばかりで、そんな読者に媚びた嘘っぱちの感動作品こそ、そのうち化けの皮が剥がれてしまうんじゃないですか。」
エル氏は売り言葉に買い言葉で得意げにエイチ氏に言い返したが、その後ろにいるジェイ編集はすべてを見透かされているような気がして冷汗が止まらなかった。
やはり、『人を感動させる薬』による感動が所詮偽物の感動に過ぎないことは、冷静に分析できる人にはちゃんとわかるようだ。
別れ際にエイチ氏はこう言った。
「まあ、次回作も期待していますよ。
でも僕はむしろ先生のデビュー作の方が好きだな。
あの物語は文句なしで感動しましたし、僕じゃなくて先生の作品が大賞をとっていてもおかしくなかったと思いましたよ。
僕は、ああいう路線の方が、先生には向いていると思うんですけどね・・・。」
デビュー作のことを、急にエイチ氏に褒められたのがよほど予想外だったのか、エル氏は一瞬戸惑った顔をした。
でも、次の瞬間には「ふん!」と踵を返すと一人でビュッフェの料理を取りに行ってしまった。
年が明けると、映画化されたエル氏の作品がテレビで全国放送されることになった。
このことに関しては、どう頭をひねってもお茶の間のテレビ一台一台に『人を感動させる薬』を仕込むことなど不可能なため、ジェイ編集はなんとかもっともらしい理由をでっち上げて猛反対し、テレビ放送を阻止するため再び『人を感動させる薬』を提案書に仕込んで関係者にプレゼンして回った。
しかしながら、製作委員会の中にはテレビ局もメンバーに入っており、ヒットした場合は放映権を独占できる契約となっていたため、今回ばかりはどうすることもできなかった。
かくして、エル氏の映画はテレビで全国のお茶の間に放送されることになった。
エル氏の映画が放送された夜、案の定ネット上での評判は散々なもので、どのSNSも批判とヒットへの疑惑の声であふれた。
「すんごい期待はずれ。」
「どこが感動する話なのかさっぱりわからなかった。」
「内容が初めから暗すぎて、気分悪くなったから途中でチャンネル変えた。」
「小説がヒットしたらしいけど自社買いで売り上げを水増ししてヒットしたように見せかけたんじゃね?」
「映画館の行列も広告代理店がサクラを仕込んでヒットしてるように見せかけただけなんじゃね?」
「公開された映画館自体が少ないらしいじゃん。あれぐらいの動員数ならバイト雇えばいけるんじゃね?」
中には、「小説は感動した。」とか「映画館で観たときは感動したぞ。」といった擁護の声もあったが「じゃあ何に感動したのか説明してみろよ。」というリプライに対してまっとうに回答できる者は誰もいなかった。
かくしてその夜、ネット上は前評判に反したエル氏の映画のつまらなさで炎上し、批判の声で埋め尽くされた。
視聴率は、映画開始直後こそ上々だったものの、後半部分はほぼゼロで、トータルとしては散々な結果だった。
エル氏のSNSアカウントのフォロワーも一晩にして半分以下に減ってしまった。
テレビ放送の一件はエル氏にとってかなりショックだったらしい。
ジェイ編集がエル氏のアパートに次回作の打ち合わせをしようと訪れると、部屋の中は荒れ放題で、床という床にありとあらゆるものがぶちまけられていた。
その中心には怒りで顔を真っ赤にしたエル氏が肩で息を切らしながら立っていた。
「僕の小説のヒットが出版社の水増しだと!
映画のヒットがサクラのおかげだと!
ふざけるな!
単にお前らが僕の作品の素晴らしさを理解できないだけだ!
どいつもこいつも手のひら返して勝手なこと言いやがって!
やっぱり僕の作品はテレビなんていう愚かな一般大衆がタダで観るメディアには早すぎたんだ!
バカな視聴者どもめ!
ジェイさん、あんただってそう思うだろう!
次の作品が出来たら絶対あいつら全員ぎゃふんと言わせてやるぞ!」
ジェイ編集は思った。
この男はどこまで身勝手なのだろうと。
そもそもお前の小説が全然面白くないのが悪いんじゃないか。
ヒットしたのだって全部自分が方々駆けずり回って裏で手をまわしてやった結果じゃないか。
それなのにこいつは全て自分の手柄だと思っている。
それだけではなく、今回の失敗は視聴者のせいだと責任転嫁している。
ジェイ編集は無性に腹が立ってきた。
そして今回ばかりはその腹の内のすべてをエル氏にぶちまけてやることを決意した。
「エル先生、わかってないのはあなたの方です!
前から何度も言うように、あなたの作品はつまらないんですよ!
あなたがバカにしている大衆の評価の方が断然正しい!
つまらないものにははっきりつまらないと突き付けてくるのが大衆っていうものなんです!
そして我々はその大衆が作品に払った金で食いつないでいるんです!
バカにしていいわけがない!
さすがに今回ばかりはあなたの態度を許せません!」
続けて、ジェイ編集はついに薬のことを打ち明けた。
「この際だから私も本当のことを言います。
先生の小説や映画がヒットしたのはすべて私が親戚のケイ博士に依頼して作ってもらった『人を感動させる薬』のおかげです。
そして私が本のインクや映画館に散布する香りにこの薬を仕込むためにいままでどれだけ骨を折ったとおもっているんですか!
あなたの駄作をヒットさせるためにですよ!?
この薬がなければ、私がこの薬をばら撒くために必死で駆けずり回らなければ、あなたなんて今頃とっくに会社から契約を切られて元の役立たずのニートに逆戻りしているはずなんです!
嘘だと思いますか?
それならここにあなたの小説の単行本が二冊ある。
一冊は薬を混ぜたインクで印刷したもの、もう一冊は普通のインクで印刷したものです。
自分の目でしっかり確かめてごらんなさい!」
ジェイ編集は二冊の単行本をアパートの床に思い切りたたきつけると、勢いよくドアを開けてエル氏の部屋を出て行った。
ジェイ編集がエル氏に本当のことを告げたのは、単に頭に血が上ったからという理由だけではない。
今後これ以上、『人を感動させる薬』に頼ることができないことがわかっていたからだ。
例のテレビ放送の日のかなり前からエル氏の三作目の小説は、その知名度の伸びとは裏腹に売り上げが頭打ちになってきていた。
小説の売り上げはその知名度と共に右肩上がりに増えていくのが普通だが、明らかに売り上げの推移がおかしいため、ジェイ編集はこのことをレポートとしてまとめ、ケイ博士に報告しに行った。
ケイ博士によると、世間の人たちが『人を感動させる薬』に耐性を持ち始め、だんだん効かなくなってきたのではないかとのことだった。
実際、ケイ博士が彼の奥さんに協力してもらい、本を読んだりテレビ番組を見るときは近くにフタを開けた薬のビンを置いてもらったところ、最初の一週間ほどは感動する様子が見られたが、ある日突然、ぱったりと薬が効かなくなってしまったとのことだった。
そこでケイ博士は薬の濃度を上げてみたのだが、やはり三日とたたないうちに薬は効かなくなってしまった。
この現象は実のところジェイ編集も実感していた。
エル氏の三作目の単行本が刷り上がった当初は本を開くたびに涙が止まらないほど感動したが、二度、三度と読み返すうちに当初ほど感動しなくなってきて、今では読み返してもまったく感動しない。
このことを感じ始めたころはまだ小説の売り上げも右肩上がりで、ジェイ編集はエル氏の小説の本来のつまらなさを知っている自分だけに限定された現象なのではないかと都合よく考えていた。
しかし、最近の売り上げの減少、そしてケイ博士の奥さんの協力による独自実験の話を聞いて、薬はそのうち誰にも効かなくなるという確信を持つに至った。
ケイ博士が言うには、エル氏の次回作の単行本にこの薬を仕込んでも、きっともう今回のようなヒットは期待できないだろうとのことだった。
「結局、この薬でいい思いが出来たのは後にも先にも君たちだけになりそうだね。」
というのがジェイ編集の報告を受けたケイ博士の評価だった。
今後世の中の人々に対してケイ博士の薬の効き目がなくなるのは間違いないことから、これ以上薬の存在を秘密にする必要はないとも言われた。
もう、薬のことをエル氏に隠す必要はなくなったのだ。
ジェイ編集がエル氏に『人を感動させる薬』のことを打ち明けた翌日のこと、改めてジェイ編集はエル氏のアパートを訪れた。
昨日はさすがに言い過ぎたな、と思い菓子折りを携えて。
エル氏の部屋のドアの前に来たジェイ編集はアパートのインターホンを押したが、誰も出てくる様子はない。
ただ、ドアに鍵はかかっていないようだった。
「エル先生、昨日は失礼なことを言ってすみませんでした。
勝手に上がりますよ。」
といってドアを開け、中に入った。
部屋の中は電気がついていなくて真っ暗だったが、奥の部屋のパソコンのディスプレイだけは煌々と光り、その前で食い入るようにFPSゲームに興じるエル氏の姿があった。
部屋は散らかっていて昨日のままだった。
どうやら昨晩から食事をしている様子もない。
「エル先生、ちゃんと食べてますか?」
返答はなく、エル氏はパソコンの画面に食らいついたままで振り向きもしなかった。
しかし、エル氏の操作するキャラクターが他のプレイヤーに倒されると、力なくコントローラーを手放して床に落としたのに続いて、ゴン、と頭を机に突っ伏すとそのまま独り言のようにぶつぶつとつぶやき始めた。
「ああ、僕にはやっぱり才能なんてなかったんだ。
世の中の連中が僕の作品を理解していなかったわけじゃないんだ。
僕にはもともと才能なんてなかったんだ。
もう、何をやってもダメなんだ。
ヒットしたのは結局全部薬のおかげだったんだ。
別に僕の小説じゃなくてもよかったんだ。
僕は特別なんかじゃなかったんだ。
ジェイさん、あんただって小説が売れて得意になってる僕をみて内心バカにしてたんだろう。
ああ、僕は自分が情けないよ、恥ずかしいよ。
僕はもうダメだ、ダメだ、ダメだ・・・。」
ジェイ編集は改めて次回作の相談をエル氏としたくて来たはずだったのだが、エル氏の落ち込みようは激しく、とてもそんなことができる様子ではなかった。
「昨日は申し訳ありません。
私も言い過ぎました。
エル先生、この通り謝りますので元気を出してくださいよ。」
しかしエル氏は相変わらず「ダメだ、ダメだ、ダメだ・・・」と机に突っ伏したまま繰り返すばかりで、話にならなかった。
「とりあえず、お詫びの菓子折りをこちらに置いておきます。
あと、弁当屋で何か買ってきますので、今夜はちゃんと食べて下さいよ。」
ジェイ編集は一度部屋を出て近くの弁当屋でから揚げ弁当を買ってくると、エル氏のアパートにそれを置いて今日はいったん引き揚げることにした。
次の日もその次の日もエル氏の様子は相変わらずだった。
ジェイ編集が持ってくる食事は食べているようで、飢えている様子はなかったが、出かけることもなければ風呂にも入っていないようで、その姿はひどいありさまだった。
仕方がないので、ジェイ編集は罪滅ぼしも兼ねてエル氏の部屋を整理したり、ゴミをまとめて出してやったりした。
編集者というよりもまるで家政婦のようだった。
エル氏が一日中ゲームばかりして次回作に手を付ける様子が無いことは、編集長にも相談したのだが、編集長は「あれだけのヒットを飛ばして忙しかった後なんだから、エル先生も少しは充電期間をとってゆっくりしてもいいんじゃないか?」といって取り合わなかった。
ケイ博士にはもう秘密にする必要はないと言われたものの、さすがに編集長には『人を感動させる薬』のことを言う気にはなれなかったので、当然の反応であった。
「それより、三作目のヒットでエル先生の知名度が上がったからだろうが、過去作が売れてきているらしいぞ。
特にエル先生のデビュー作が徐々に売り上げを伸ばしていて来ていて、ファンレターまで来ているときいたぞ。
ジェイ君、このところ君も忙しかったからファンレターなんてチェックする暇はなかっただろう。
この際ゆっくり目を通しながら今後の作品の戦略でも考えてみたらどうだ。
これもマーケティングの一環だ。」
三作目のヒットのおかげでエル氏の過去作が売れてきていることは、当然ジェイ編集も耳に入れている。
なので、デビュー作と二作目の再販や増刷の際も、忙しい合間を縫って印刷会社に足を運んで『人を感動させる薬』を混ぜたインクの缶を使うよう印刷機の担当者に依頼することに余念がなかった。
そして、エル氏の過去作のうち二作目の売り上げが早々と頭打ちになっていること、それに対して、デビュー作の売り上げだけが今でも伸び続けていることを、データとして把握していた。
ただ、ファンレターについては初耳だった。
三作目の小説と映画がヒットした時も、SNSでは評判になったがファンレターなんて来る様子はなかった。
結局は『人を感動させる薬』によるその場限りの偽物の感動は、読者にファンレターを書かせるほどの動機につながるものではなかったということだろう。
そして、本当に感動する作品には、薬の効果があろうがなかろうが、読んで心を動かされた人に行動を起こさせる強い力があるということだろう。
社内の担当者にファンレターのことを尋ねると、編集部あてのエル氏の作品に対するファンレターは既に段ボール箱いっぱいになるほど届いていた。
ジェイ編集は編集部の自席に腰かけると、ファンレターを一つ一つ読み始めた。
ファンレターはどれもエル氏のデビュー作に対してのものだった。
その数はいまだにとどまらず、一昨日1通、昨日2通とまだまだ届いてきているらしい。
SNSでエル氏のデビュー作のタイトルをサーチすると、やはりエル氏の隠れた名作として評判が広がりつづけているようだった。
それから数日、ジェイ編集はファンレターを仕事の合間合間に、エル氏のアパートへの往復の時間に、そして帰宅する時も持ち帰って読みふけった。
すべて読み終わるには一週間が必要だった。
この一週間、ジェイ編集はファンレターの中でぜひエル氏に読んでほしいと思うものに付箋を貼っていき、再び束にして元の段ボール箱に納めていった。
今日もジェイ編集はエル氏のアパートを訪れた。
今日はいつもと違って、エル氏のための食事だけでなく、例のファンレターの詰まった段ボール箱も携えての訪問だった。
エル氏は今日も相変わらず明かりもつけずにFPSゲームにかじりつきっぱなしだった。
「エル先生、いつも通り食事はここに置いておきます。
ちゃんと食べてくださいね。
それから、ファンレターが段ボール箱いっぱい来ていますから置いていきます。
必ず読んで下さい。
必ずですよ。」
そう言ってジェイ編集は食事と、ファンレターの入った段ボール箱を置いて帰った。
ジェイ編集が帰った後も、エル氏はしばらくFPSゲームを続けていたが、そのうち負けが込んできてつまらなくなり、食事をとろうと怠そうに台所に足を運んだ。
ジェイ編集の持ってきた段ボール箱がエル氏の目に留まった。
エル氏はなんとなくではあるが、吸い寄せられるように段ボール箱の中身を覗き込んだ。
ファンレターはどれも編集部あてで、アンケート用のはがきに感想がかかれたものもあれば、封書もあった。
封書は全て封が切られており、どれも何枚もの便せんの束が封筒の中からのぞいていた。
ファンレターの内容は、全てエル氏のデビュー作についてのものばかりのようだった。
エル氏が輪ゴムで止められたファンレターの分厚い束を一つ掴むと、束から何枚かの付箋が飛び出していた。
その付箋のついた封筒の一つをエル氏は引っ張り出し、読みはじめた。
「こんにちは、エル先生。
最近ふと立ち寄った書店で、かつてのわたしを救ったこの作品がたくさん山積みされているのを見つけ、うれしさとなつかしさの余り再び手に取った次第です。
当時のわたしは急性白血病で入院中の息子をかかえ、わたし自身も不況により会社をリストラされ、絶望に打ちひしがれていました。
息子の病気のことで気落ちしている妻にリストラのことを打ち明ける勇気もなく、家のローンも、息子の治療費もこの先払っていけるとは思えず、いっそ家族を道連れに死んでしまいたいとさえ思っていました。
リストラされてしまった次の日の朝、妻に会社に出かけると嘘を言って出かけたもののゆく当てもなく、ふと立ち寄った書店で、当時のわたしは偶然にもこの本を手に取りました。
書店で立ち読みを始めたのですが、主人公とその家族の境遇がとても他人事とは思えず、すぐさまレジに向かって支払いを済ませると、書店近くの公園のベンチで夢中になって読みふけりました。
解雇通知を受け生活がすさんでゆく元プロ野球選手の主人公の焦りや苦悩、家族との衝突、そして息子が急性白血病と診断された時の絶望、まるで自分のことのようでした。
もう一度バッターボックスに立つ父の姿をみたいという息子の言葉を聞いてから主人公が再起し努力する姿に、プロテストに合格しもう一度プロ野球選手としてバッターボックスに立つシーンに、そして、主人公のプロ野球での活躍により、息子の治療費を稼ぐことができ、ついに息子の白血病が寛解したことに、その数年後、退院した息子が、主人公に自分も父親のようなプロ野球選手になるのが夢だと告げるラストシーンに、そのすべてに涙が止まりませんでした。
無我夢中で読んでいたらしく、読み終えた頃にはとっくに日が傾き始めていました。
その日、帰宅した私は妻にリストラされたことを正直に伝え、必ずちゃんと仕事を見つけるし息子のための治療費も何とか稼ぐからどうかこれからも一緒にいてくれと必死で頭を下げました。
妻は正直に話してくれてありがとうと言って、私を見捨てないでいてくれました。
お恥ずかしい話ですが、この作品に出会うまでは、急性白血病がどのような病気なのか知りませんでした。
現在では必ずしも不治の病というわけではないということを、この作品を読んだのをきっかけにネットで調べて初めて知りました。
それまではリストラされるまで会社にしがみつくのに必死で、息子の見舞いにもろくにいかなかったため、医者の話をくわしく聞こうともしなかったのです。
父親失格ですね。
それからわたしは、夜は工事現場で交通整理のアルバイトをしながら、昼間は就職活動をし、その甲斐もあって地元の小さな清掃会社に正社員として採用されました。
初めてのことばかりの慣れない仕事で自分より年下の上司に叱られる毎日ですし、給料は前職の半分になってしまいましたが、家族のことを思うとそんなことは何でもありませんでした。
そのうち生活も安定し、息子の治療費も継続して払うことができ、先月ついに息子の白血病が寛解に至ったと主治医から伝えられました。
「お父さん、お母さん、ありがとう。」と息子から礼を言われたときは妻もわたしも涙が止まりませんでした。
あの時、先生の作品に出合っていなければ、きっと今のわたしはありません。
息子の治療はまだまだ続いていますし、生活も必ずしも裕福とは言えませんが、今、わたしは幸せです。
先生の作品の主人公ほど大きな舞台ではないですが、わたしはわたしなりの舞台の上で息子に立派な父親の背中を見せることができたような気がします。
かつてわたしが手に取った先生の作品が、時間を超えてわたし以外のたくさんの人々に勇気を与えていることは、まるで自分のことように誇らしいです。
わたしは、わたしの人生を変えてくれたこの作品が大好きです。
映画化された三作目も、その前の二作目もまた違った形で感動しましたが、わたしはやっぱり先生の作品の中でこの作品が一番好きです。
最初にこの作品が出版された頃は、先生もデビューしたてでこの作品もまだ広く世の中に知られていなかったのだと思いますが、きっと、やっとのことで時代が先生に追いついたのですね。
今改めて読み返してみて、当時の懐かしい記憶がよみがえるとともに、やっぱりこの作品は月日を超えても色あせることのない素晴らしい作品だと感じました。
最後にもう一度、わたしたち家族を救ってくれてありがとうございました。
これからもずっと応援しています。
お体に気を付けてこれからも素晴らしい作品を作ってください。
エル先生の一ファンより」
次の日、ジェイ編集がエル氏の家を訪れると、部屋の明かりがついており、エル氏は机に向かって思案していた。
パソコンの画面はいつものFPSゲームではなくワープロソフトの画面だった。
キーボードを打ちながらエル氏はジェイ編集に語りかけた。
「ジェイさん、どうやら僕はこれまでひどい勘違いをしていたようだ。
もともと僕が純文学にこだわっていたのは、純文学がエンターテイメント小説よりも高尚なものだと思っていたからだ。
純文学小説家として人間の弱い姿や愚かさをどこまでも現実的に描いて、表現や心理描写を独創的に書くことが出来れば、たとえ世の中の大半の人に受け入れられなくても、そのうち文壇に認められてデカい賞をもらえたり、時が経てば後世の人に認められて有名になれると思っていた。
そして、エンターテイメント小説のことを一般大衆ウケを狙って偽物の感動ばかりを求める小説だと見下していた。
でも、現実はどうだ。
今回の件で僕が純文学だといって書いてきた小説こそ偽物の感動しか呼び起せないつまらない小説だという事を思い知らされてしまった。
表現や心理描写にこだわるばかりだったり、やたら暗くて救いがないだけのストーリーを、これこそが現実をありのままに表したストーリーだと気取ったりで、僕の物語を誰かが読んで面白いと思ったり感動したりするかなんてこれっぽっちも考えていなかった。
売れなくて当然だ。
一方で、なかば投げやりに書いた嘘とご都合主義に満ち溢れたたった一つの娯楽作品が本当の感動を呼び起こして、嘘っぱちどころかどん底に落ちるはずだった見知らぬ誰かの運命を変えてしまったり、救ってしまったりしている。
現実にそんなことが起こっている。
それはなぜか、答えは簡単だ。
読者にとって一番大事なことは、その作品がその人にとって、今この時代、この瞬間に読んでよかったと思えるものかどうか、それだけだからだ。
面白かったり、ドキドキハラハラしたり、感動したり、人生観や価値観が変わったり、僕が本当に書かなきゃいけなかったのは、僕の小説を読んだ誰かが、何かしら読んでよかったと心から感じてくれるような小説だったんだ。
それには小説のジャンルなんて関係ないし、高尚か低俗かも関係ないし、ましてや賞が取れそうかどうかなんてまったく関係ない。
僕は、このことにもっと早く気付くべきだったんだ。
ジェイさんがずっと僕にエンターテイメント小説を書けって言い続けてきたのは、いつの時代の人も、たとえそれが嘘っぱちだと分かりきっていても、臆病な自分に勇気を与えてくれたり、迷っている自分が前に進めるように背中を押してくれる物語を求めているからなんだろ。
こんな簡単なことに、どうして僕は今まで気づかなかったんだろう。
これからは、世の中の人が僕の作品を愛してくれるように、僕の方から読者に寄り添うような作品の作り方を心がけるよ。
また誰かの人生にとって意味のある作品を書けるようにね。
僕にはそっちの方が向いているんだろ?」
「先生なら自分でそのことに気付いてくれると思いました。
これからもどうぞよろしく頼みますよ。
それでは先生、早速ですが次回作について話し合いましょう。
どうやら、もうすでにアイデアはわいてきているようですしね。」
その後、エル氏は四作目の小説を完成させ文句なしのヒットを出した。
デビュー作以上の出来栄えの、感動を呼ぶエンターテイメント作品だった。
出版前の原稿を読んだエイチ氏からは、ぜひ自分に単行本の帯を書かせてほしいとの申し出があった。
断る理由はなかった。
エイチ氏から入稿された帯の文章は
「文句なしの感動作。
この作品に心動かされる人がこの先どれだけいるだろうか。
生涯のライバルともいえる作家の出現に私はいま、心が躍っている。」
と綴られていた。
数年後、エル氏はとうとう純文学の国内最高峰の賞を受賞した。
本人はあれから徹底してエンターテイメント小説を書き続けていたつもりだったが。
オリジナリティあふれる文章表現と細やかな心理描写で彩られたエル氏の作品は世間の評価では純文学のカテゴリに入るものらしい。
受賞が決まった翌日の夜、エル氏とジェイ編集は都内のホテルの最上階のラウンジでワインの入ったグラスをチン、と重ねた。
エル氏は上機嫌でジェイ編集に語った。
「何年前だったっけな、あのときジェイさんが言った通り、作品のカテゴリなんて僕らで決められるものじゃないんだなぁ。
エンターテイメント小説をずっと書いていたつもりが、純文学の賞をとっちゃうんだから。
そんなことよりも、僕らがこれからも一番に考えるべきことは、どうすれば読者の心に残る作品を作りつづけることができるかだな。
それはこれからも変わらない。
まぁ、かつての僕にそのことを気付かせてくれたのはジェイさん、あなたなんだけどね。
独りよがりな作品作りにこだわるあまり崖っぷちに立たされていたはずの僕に、例の薬であなたはもう一度だけチャンスをくれた。
今の僕が大切なことに気付けて、今こうして作家として成功できたのも、あのときジェイさんが僕を見捨てないでいてくれたおかげなんだ。
改めて礼を言うよ。」
そして二人はグラスの中身を飲み干した。
実は二人とも酒がまったく苦手なのだが、ケイ博士が苦心の末、最近やっと完成させた『どんなものでもものすごくおいしく感じる薬』をほんの少し混ぜて飲んだため、心地よく勝利の美酒に酔うことができた。
(おわり)