物語食卓の風景・祖母のぼやき⑤
芳江が出した夕食のメニューは、アジの南蛮漬け、味噌汁、ヒジキ煮、豆ご飯だった。いつものように、夫は黙々と食べる。
「この豆ももうそろそろ終わりね。毎年豆ご飯を作ると、春が来たなーって思うのよね。豆ご飯にする回数、多すぎやしなかったかしら?」と、夫に話しかけてみる。しばらく黙々と食べていた夫、ボソッと「……別にいいんじゃないか」とつぶやく。
やった。返事が返ってきた。ということは、それなりに気に入っているのね。本当にこの人をしゃべらせるのは骨が折れる。でも今日は、立花さんのことを聞かなければ。
食事が終わり、お茶をすすって、夫が新聞を手に取ったところで切り出す。
「あのね、今日お隣の立花さんにお会いしたんだけど、ご主人が長い旅行に出ていると言っていたわ。でもね、私、前に立花さんが香奈子ちゃんと話しているのを聞いちゃったのよ。お隣のご主人、どうも失踪したらしいの。なんで、どこへ行っちゃったんでしょうね。あるいは誰か女性と? いずれにしても行方がわからなくて。あの人、何かご趣味とかあったかしら。温厚そうな普通にいい人のように思っていたけれどね。あんまり残業とかつき合いゴルフとかで家を空けるタイプでもなかったみたいだし。
そういえばあなた、お隣のご主人を子どものときから知っているのよね。どういう子だったか覚えている?」
「失踪?」
「そうなのよ。くわしいことは立花さんが隠しているので分からないんだけど、どうやらそうらしいの」
「あの秀平君が……考えられないな。警察に届けは出したのか?」
「隠しているってことは、出していないんじゃないの? 何しろ旅行と言われてしまってくわしいことはさっぱり。でも、お隣に住んで長いし、何か力になれたらと思うじゃない? どうして失踪したのかわかるといいなと思うのよ。あなたは昔からお隣のことを知っているから、昔の話に手がかりがあるんじゃないかと思って」
「手がかり。昔に?」
「そう。実は子供の頃からどこかへ行くことが夢だったとか、年を取って自由になったからこそ行けるとかね」
「なるほど。昔……秀平君は、おとなしい子だったよ」
「あなたより?」
「失敬な。俺は営業の仕事をしていたんだぞ」
「それが信じられないのよね。営業マンって商品の特徴とかいっぱいしゃべっていいと思わせて買わせるような仕事でしょ」
「それはテレビのショッピング番組の見過ぎじゃないか。それか、家に来るセールスマンと間違えている。俺の仕事はルート営業といって、新規顧客を開拓するより、長年積み重ねて来たお得意先との関係性の中で、相談にのったり新しい商品への交換をおすすめしたりといった仕事だ。信頼関係が第一で無茶な取引はしない」
「そうか。営業と言ってもいろいろあるのね」内心、こんなにたくさん夫がしゃべるのは珍しいと思いながら、芳江はこの調子で話してくれれば、何か手がかりがつかめるかもしれない。刺激してまた黙り込んでしまわないように、上手に話を運ぼうと考えを巡らす。
「たくさんしゃべることが、信頼を獲得するとはかぎらないのね。そうか。あなたも長い間よく働いてくださったものね。ありがとう。おかげで私も生活に困らなかったし、千紗もちゃんと育ったし」
「どうしたんだ、急に」
「いや、考えてみたらありがたいなと思って。それで、さっきの話に戻るけど、お隣のご主人、どんな子どもだったか覚えている?」
「その話か。そういえば、うちに遊びに来たことがあったな。引っ越してきてそんなに経っていない頃だ。うちの庭木で昔、育ちすぎてお隣にまで枝を伸ばしていたのがあってな。何だったかな。わしはあんまり植物にはくわしくないんだが、ドングリが生る木だった。育ちすぎて庭の土が根っこで盛り上がってきたから、わしが大人になったぐらいの頃に切り倒してしまったけどな」
「ああ、結婚したときにはまだ切り株が残っていたわね。でもお義父さんが、邪魔だって掘り起こさせたわね」
「そう。あの木。その木から落ちたドングリが、お隣にも落ちていたみたいなんだ。それであるとき、秀平君がやってきてね、『ドングリを拾わせていただけませんか』って。小学校のまだ3年生ぐらいだった。真剣な、思いつめたような顔をしてた。まあ子どもだからな。必死で勇気を出したんだろう。
それで、『いいよ』と言って庭に入れてやったら、まっすぐにその木のところへ行って、黙々とドングリを拾って、持ってきたスーパーの袋いっぱいに詰め込んで帰ったな。おふくろが、『下手に残しておくと、またそこから芽が出てしまうかもしれないから、かえって助かったわ』と声をかけたら、にっこり笑ったな。『お茶でも飲んでいきなさいな。おやつも何かあったんじゃないかしら』と声をかけたんだが、『いえ、いいです』って辞退して、あわてて帰っちゃったなあ」
「そう。ドングリ。子どもは好きだものね。うちにはもうドングリが生る木はないものね。千紗は、公園で拾っていたわ。幼稚園ぐらいの頃かしら」
「そうか。千紗が生まれるころにはもう切り株だけだったものな。その切り株を親父が掘り起こしたのも、千紗が庭を走っていて、根っこが出ていたところにつまずいて転んだからだよ」
「そうだったかしら。そうね、そういえばそうだったかもしれない。お義父さんは、千紗を目の中に入れても痛くないぐらいにかわいがっていたものね。でも、千紗が小学校に上がる前に亡くなってしまった。急だったから、介護もしなかったし」
「親父らしいよ。『寝たきりになるのはごめんだ』ってずっと言っていたものな。人の世話になることが嫌いで」
「お義父さん、家事も一通りできる人でしたものね」
「うちのばあさんが早く亡くなって、親父は若い頃は弟妹の面倒を見ていた時期があるから、家事の心得はあって。おふくろもあんまり長生きしなかったし」
「確かにそうね。私はお義母さまにお会いしたことはなかった」
「俺が働きだした頃だったかな。事故だったんだ」
「そう聞いたわ。交通事故でしょう?」
「角のところで、一時停止もしないで曲がろうとした馬鹿な運転手がいたんだ。納品に遅れるって焦ったトラックの運転手だった」
「残念だったわ、お義母さまにお会いしてみたかったわね……お隣のご主人との思い出はそのぐらい?」
「まあ、向こうは小学生でこっちは高校生だろう。一緒に遊ぶこともないしなあ。ただ、あんまりお隣の家に友達を連れてくる様子はなかったなあ。子どもの声が響き渡ることもあんまりない。秀平君は一人っ子だったから。勉強も真面目にしていたらしいし。ビートルズとか聴いていたような気もする。若い頃な。お隣から流れて来るなんだか騒がしい曲が、ビートルズだって、後から知ったんだ」
「団塊世代だものね、お隣は。学生運動とかも参加したのかしら」
「まあ、関学だもんな。学生運動はあったよ。でも参加はしてないんじゃないか。それこそ、そういう運動家みたいなのが出入りする様子もなかったし、そういうのに参加していたら噂になるだろう。そういう噂は特にその頃なかったよ」
「そう」
手がかりがあるかと思っていた芳江はがっかりする。確かに高校生から先の男の子が、近所の家の事情にそんなにくわしくなることはないかもしれない。だいたい奥さんたちがご近所の噂を伝えるのに、この家ではそういう人がいなかったんだもの。手がかりがつかめるかと思ったのは甘かったわ。
結局、芳江は何の手がかりもつかめないまま、この日を会話を終えたのだった。芳江が新しい手がかりを見つけるのは、もう少し先の話である。
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