【A型】僕のnoteは「理解するのが難しくて疲れる」という友達からの意見【僕の取扱説明書】
タイトル通りなのですが「内容を理解して共感しようと思うが、文脈の繋がりと回収が複雑過ぎで追うのが尋常じゃなく大変」ということらしい。
僕は常々、「相手に頭を使わせる」ことに執着して、その人の反応を見ることを喜びとしているので、これはこれで狙い通りでもある。
このリアクションを得られたことが、大きな成果だ、とも呼べる。
まぁだから、僕からすれば当たり前でむしろよくついてくるなと。なんなら僕の方が自分の記事に対して「何いってんのこいつ」って思っているはず。
ほら、僕は平沢進さんみたいになりたい人だからさ。
ファン「平沢進さんを知らない人にオススメするならどんな曲がいいでしょうか?」
平沢進「頼むから、オススメしないでください」
それはそれとして、率直に向こうの意向を表現すると
読み辛い!目が滑る!!
ということなので、せめて疲れないようにするためにどうやってできあがっているのかを解説をしようと思った。
こうすれば、中身がわからなくともなんとなくまぁそういうことだろうな、という心構えができるはずだ。多分、こんなこと考えていたのだろうという。
ただまぁ、これを読んでもわかるようにはならないわけ。残念だったな。
でも、なぜわからないのかはわかるようになると思う。
だから、取扱説明書という立ち位置にしておいた。読んだところでわかるのは少しの名称くらい。あと付属品。まだ、使い方はわからない。わかるのは扱い方である。
なので、書いた目的はあくまでも友達に向けて、である。
だが、一部においては、もしかすると他人とのコミュニケーションなどにおいてのヒントがあるかもしれないので、公に出すことにした。
懸念すべき誤解「これは自分のためにかいているもの」
友達いわく
「こうして会話するときとのギャップが凄まじ過ぎるので、二重人格なのか?」
とのことであった。
「え、普段こんなこと考えて、何食わぬ顔で街を歩いてんの?」
「そうだよ」
「ヤバい奴やん」
それくらい「普段の喋る内容はわかりやすい」ということである。まぁ、30年の付き合いなので意思疎通に難がないのは当たり前だが。
僕と喋ったことがない人には理解できないことだろう。
だが、説明の上手い人、という人が世の中にはいるらしいということはご存知だと思う。それが具体的にどうか?というのはさておき、である。
確かに、仕事柄色々と説明を求められたときには、わかりやすさを優先して——逆の言い方をすればある程度の正確性を犠牲にして——説明をするようにしているので、人によってはこれを「説明の上手い人」だと錯覚するだろう。
だが、これは少し騙されているかもしれないことに注意したほうがいい。つまり、わかりやすい説明にはほんの少し嘘が入っている可能性がある。ただでさえ知らないことなので、それを見抜くのは難しい。
相手に本当に理解をさせたい場合には、相手の理解を優先して、ある程度の情報から自分で結論に至ってほしいがゆえ、含みを持った言い方をすることになる。これは、説明される人には、かなりの疲労を強いてしまう。想像力がいる。答えを導こうという根性が結構いる。人間は1日で使える根性の総量が限られているように思うので根性ポイント(KP)は大事にせねばならない。
そのため、「正解を知っているのになかなか言ってくれない意地悪な人」となる。
だが、それが理解には最も近いことを理解したほうが良い。「遠回りこそが最短の近道」なのである。
蛇足だが、これには次のような理由がある。
理解の仕方は、人によって全く異なる。自分の理解を相手に勝手に植え付けるのは洗脳に近いと感じているので、自ら開拓してほしいと思ってのことである。それくらいには、人には多様性がそもそもあるものだ、と感じている。なので、昨今メディアの伝える多様性は嘘ばかりだなと思う(失言)。あまりにもわかりやす過ぎるという意味だ。
つまりはまぁ、この差が如実に出ている。
会話は双方向なので、相手にボールを返してもらう話し方をする。なので前者の立場。
つまり、どんな言葉も明瞭である。
この記事は書きたい人が書きたいことを書き、読む人が読みたいことだけを読み取る各々一方通行なので、僕は後者の立場をとっている。
つまり、用途不明なのである。
だからギャップがある。普段明瞭な事しか言わない人が、なんか意味深なことばかり言い出すのだから。
色んなものを散りばめており、そのどれもが核心をつかないように意識している。
つまり答えがないのに、なぜか問題だけが提示されている。
Q.「このときの作者の気持ちを述べよ」
A.「そんなもん本人じゃないからわからん」
だから、分かりづらいし、全く分からない。そもそもこれらは自分の考えなので、同じ体験をしている人じゃないと、わかりようがないときも絶対にある。同じ体験をしていても、違う感想を抱く人だっているだろう。
僕と同じ境遇の人でも、僕より状態が良くない人はほとんどいないように。
だが、あえて残している。
もしかすると、どこかで全く別の体験をしたのに、同じような考えを抱くのかもしれない。
これを専門用語ではAnalogyと呼ぶ。日本語では類推。
なぜか別のことについて述べた説明なのに、他の事象も同じようにいえることがある。
数式で表すならば、式の形が同じ。でも表している現象は別、というものである。抽象的に、なんとなく似ているとわかる、というものだ。
もちろん、これが誤解のときもある。でも、僕の記事で書き連ね求めているものは、唯一無二の定理といった正確で厳格なものではない。誤解は誤解ではなく、ただの異なる意見で終わる。
つまりは、全てが不確かなのである。定まらないことを、定まっていないですね、と書いてある。
これも分かりづらい要素の一つだと思う。
要するに内容は濃くない。なので味はしない。
つまるところはこうだ。こういった、かもしれないが無数にある。
だが、世の中にも同じようにかもしれないは無数にあり、これは有象無象たる路肩の石とほぼ変わりはしない。たくさんあるが、それぞれの違いは正直いってよくわからない。
ただ、ここには僕の見た一つの解釈があるのみである。なので異なる意見を持つ人がたくさんいるのだろうと感じている。
各々は路肩の石だが、今これを見た瞬間には自分とは異なる他人だと強くわかるようになる。異質なものである。
そういう差異を示すためにもたくさん書いている。
先に述べたように、もしかすると違うものなのに似たような考えに至るかもしれない。そこまで残るものが描ければ最高だろう。
それは本当にできるかどうか、僕にはわからないことなので、とりあえずたくさん記すことにした。
だからこれらはただの石だが、ただの石ではなくなるもしれない。自分の意志を書いているのだ。
石だけに。
こうやってよくわからないダジャレを書くのも分かりづらさを助長しているのかも。
求められていない下らないダジャレを書くのが一番楽しいんだから。
…最近冷えてきましたね。
お後がよろしいようで。