標準化された教育に、個性を求められる社会人
これ間違っていると思います?別にこれに矛盾はないんです。
標準化された教育で求められているのは、社会人としての基本能力のことです。
読み書き、会話、伝えてる能力のこと。
アナタ、日本語シャベレマスカ?
まぁ、ちょっとは。
僕は、人よりは言葉選びが慎重な方だと自分でも思っています。
だから、雑な言い方はよく目につく。
そういう人なんだな、と思うようにしているので、結果的には慎重な言葉づかいをする人との交流が増えていく。こういう方は、そこまでたくさんはいない。
さて、標準化された内容、レベル差のない勉強、受験、そして社会人になるときに
「あなたって、どんな人?」
と突然聞かれる。
就職の質問はほぼ全て、この問に落ち着くと考えても良い。
「動物に例えると何ですか?」「趣味は?」「休日は何をしていますか?」などなど。
学校の受験は「私はここで勉強がしたい!するためにこれだけのことをやってきた!だからより成果が出せるはずだ!何より私がそうなりたいと願っている」でまだ通せる。
だが、突然「どんな人?」と聞かれるのである。
世間一般でいう「個性」だ。
もともと特別なオンリーワン…
何がオンリーワンなのだろう…
これを考えることを自己分析という。
だが、こんなこと本来はせずともおのずと答えが出る。
だって、自分自身のことだ。
自分の周りに聞けばいいのである。
自己認識とは別である。あくまで他者目線の自分像をはっきりと捉える。
そしてそれを質問の内容に写せば、社会人にとっての「あなたってどんな人?」には対応できる。
また重複してしまうが、自分自身のことでも自己認識とは全く別のものであると思っていい。
本来は「周りから見て、どんな人だと思われていますか?」という質問だからだ。
これは、これまでの行動とかに全て現れているのでそれを結べば良いだけ。
「君はリーダーシップと責任感が強いよね。積極的に委員とか引き受けていたし」
「君は我慢強いよね。部活でも最後まで居残って練習していたし」
などなど。
自分であれこれ考える時間ももちろん必要。でも、聞くのが早い。
そしてそういった会話の中で、「自分のやりたいこと」が見つかるだろう。
こんなことをしてきた、次にこれをやった、そうか、自分はこれが得意で好きなことなのだ、と。
僕は何事も管理するのが好きです。測定が好きです。定式化が好きです。
その中で「こんな傾向がある」と予想するのが好きです。
ちなみに、これからの社会では労働力如何ではなくて、管理職がどんどん不足する。というか、不足している。
それができる人が少ないからである。そもそも、人が減ってきている。でも仕事は減らない。結果的にはプレイングマネージャーが増える。そうすると管理職としての仕事は疎かになる。スーパーマンなら話は別だが、殆どの人は、そんな二足の草鞋は履けない。
自分の立ち位置を正しく理解するために、自己分析。やれることをやる。できることをやる。できないことは「できません」と述べる。
ただ、それが「今は」なのか、「能力不足」なのか、「時間が足りないので」なのか。
時間が足りないなら、「間に合うかどうかわかりません」である。
言葉はそれ単体で意味を持ってしまう。でも伝えるには言葉が必要。独り歩きさせないためには、正しく選び、なぜその言葉を選んだのかが明確であるべきだと思う。
言葉選びこそはその人の「個性」をありありと映し出すものだと考えている。
どうか「こいつはおもしれぇ」と思われるような人でありたい。