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チベット・カイラス山…人はなぜ、祈るのだろう?

今日、チベットの巡礼のドキュメンタリーを
youtubeで見て、祈りについて考えました。

30分に満たない番組、
二組の家族と一人の少年が出てきます。
過酷な自然の中で、
祈りと共に暮らしています。

御飯をお腹いっぱい食べられるように、
子供が学校に行けるように、など、
現実的な話も出てきますが…

巡礼の目的は、煩悩から解き放たれること。

日本よりも遥かに煩悩がなさそうな地域、
それでも、カイラスの山に祈りながら歩いて、
より良い心であるように願う…

自分だったら、どうだろう?
普通電車で1時間半が遠い、とか、
帰りにどら焼き買って帰ろう、とか、
煩悩が標準装備すぎなのですが。
ええ、好きな食べ物はどら焼きです。
今日もファミマで2個買いです。

現在の日本では、神社仏閣に赴いても、
ご利益の祈りが主だと思うのですが、
本来、どのように祈られてきたのか、
何だか気になってきました。

聖山の麓では、耳の聞こえない少年が、
ひたすら石に仏教の経文を刻んでいます。
その姿が忘れられません。
売り物なのかもしれないけれど、
何かを振り切るかのように、
祈りを刻んでいるように見えます。

忘れられないけど、
遠い世界のこととして見ている自分が、
なぜか、しんみりさみしい…

彼らは、現世を超えて、自身を超えて、
生きているような気がしてきます。

番組の想像させる余白が、
彼らの物語を一層深くします。

人間についての謎がまた増えました…

お読みいただき、ありがとうございます。

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