ニュートラリゼイション・タンク
その人を仮にAとする。
Aは暗闇で目覚めた。目には何も映らない。身体感覚もない。
自分は死んだのだろうか?
Aは恐怖を感じなかった。大きなものに包まれている、と思った。
ゆっくりと、視力が回復し、身体感覚も戻ってきた。
どうやら自分は、暗い浴槽に仰向けになって浮いているようだ。体を取り巻く液体は水ではない。人体と同じ比重の何かで、体温と等しくなるよう温度管理されている。頭には電極がつながっていて、コードが天井に伸びている。天井には手が届きそうだ。四方は壁で覆われている。
「目覚めましたね」と、声がした。
明らかに機械音声だ。しかも声は老若男女の多重の層になっていて、不自然だ。
Aは「ここはどこですか?」と聞いて、自分から声が失われていることに気づいた。
機械は不安を見透かしたように「あなたの声は、あなたの脳が聞き取れないよう調整されています。意思疎通はちゃんとできます。さて、質問に答えましょう。あなたが現在いるのはニュートラリゼイション・タンクです」と答えた。
「何ですか、それは?」
「ある有志の科学者グループが開発した装置です」
Aはどう反応したらいいのか分からなかった。沈黙していると、機械はこう続けた。
「あなたは男性ですか? 女性ですか? それ以外の性ですか?」
Aはこの質問にすぐ答えようとして、窮した。自らに対する性の概念が浮かばないのである。機械はさらに尋ねた。
「あなたの国籍と、あなたの信じる宗教を教えてください」
Aはやはり答えられなかった。世界には様々な国があり、宗教がある。それは理解していた。しかし、自分の所属が分からない。
「答えられなくて正解です。あなたはそれらへの帰属概念を一時的に遮断されているのです」
「あなたがたの目的は何なのですか?」
「我々の目的は、属性を剥ぎ取られた人間のデータの収集です。無知のヴェールをご存知ですか? この観念上のヴェールを科学的に具現したのがニュートラリゼイション・タンクです」
「私は帰らせてもらえるのですか?」
「もちろんです。次に目覚めたときは、いつものベッドの上にいます。記憶も元通りになります。ただし、帰宅するには条件があります。それは我々のいくつかの質問に答えていただくことです」
「……分かりました」
「では、始めます」
機械は社会構造の是非についての質問をした。人の優劣や上下、支配と被支配、富の寡占と分配。質問の前には、必ずこう言い添えた「我々をスポンサードする政治結社によって、あなたの回答が現実の政治に反映されることになります」
目覚めたAは、自分が何者だったのかを知って愕然とした。ニュートラリゼイション・タンクでは、自分を最も弱い立場の人間だと想定する必要があった。なぜならそこでは、自分の性別も、国籍も、信じる宗教も、資産があるのかどうかも分からなかったからだ。直感的に、同時に理性的に、Aは最悪の事態を避けようとした。自分が最も不運で、差別され、蔑まれている人間だったとしても、ダメージが最少に留まるよう、すべての人々の最低限の安全と権利が担保される政治を支持する、と回答したのだ。しかし、現実はまるでそうではなかった。「彼」は恵まれていた。社会は彼に有利なように設計されていた。ニュートラリゼイション・タンクでの回答は、現実の自分にはなはだ不利益をもたらすものだったのだ。
彼は窓の外を見た。通りでは貧しい人たちがデモ行進をしていた。吐き気をもよおすような、属性なき素のAの本音を叫んでいる。彼はカーテンを乱暴に閉めた。