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10センチ浮いている
男は目を覚ました。
ベッドから降りると、違和感がある。
足が床から10センチ浮いている。
足の下の空気が、目に見えないまま凝固しているようだ。
玄関に行って靴を拾い上げ、履いてみた。
やはり10センチ浮いている。
このまま外へ出るのは無理だ。
会社も欠勤するしかなさそうだ。
部屋へ戻り、何となく座禅を組んでみた。鏡に映すと、宗教家が空中浮揚しているように見える。
男の場合、実際にしているのだが。
テレビを点けて、ニュース番組を見てみる。
人々はみな着地している。
人体が浮揚する現象の報告もない。
男は思案した。
ある人間が特別で、それが歓迎されるのは、特別さと凡庸さの間になだらかな階層が形成されている場合に限られる。
例えば、キャッチボールを覚えたばかりの子供とメジャーリーガー。その間には技術的な階層が無数にあり、だからこそメジャーリーガーは尊敬される。
それに引き換え、すべての人間が電子の雲の厚みしか浮いていないときに、1人だけ唐突に10センチも浮いているのはまずい。
こんなのは、畏怖されるか、見世物にされるかだ。
つまり、嫌われるか、馬鹿にされるかなのだ。
男は思わず祈った。
神よ。
あなたはなぜ私を10センチ浮かしたのですか。
これでは人並みの社会生活が送れません。
私がこんなふうに特別になったのは、何の罰ですか。
男は目を覚ました。
そして、現実には30センチ浮いていることを思い出した。