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指はもぞもぞ動いて、僕を起こした。おはよう、おはよう。僕に指の声が聞こえるのは、もともとの指の持ち主の声を記憶しているせいにちがいない。指に口はついていない。

彼女はいつも二度挨拶をした。おはよう、おはよう。
僕も二度挨拶を返した。おはよう、おはよう。
合計四回のおはようが僕らの朝の始まりだった。それはルールのようなものだった。僕らのルールはいつも楽しさを目指していた。もしもあるルールがどちらかの苦痛になるのなら、それは別の形に置き換えられる。僕らはこの挨拶を続けた。彼女が指になってしまってからも。

僕は指を見つめた。それは人差し指だ。どうして人差し指なんだろう、小指ではなくて、薬指ではなくて。ともかくそれは右手の人差し指だった。彼女の指のうちで唯一ほくろのあった指。ほくろは爪と第一関節のあいだにあった。

朝の光が窓から射し込んでいた。
僕の左腕はもうなくなっていた。左肩のあった付け根は、湯上がりように温かく、湿っていた。
進行性体節分離消失症。僕は、自分が例外ではないことを知っていた。

「昨夜、僕が七歳だったときの同級生に会ったよ」と僕は指に話しかけた。
「その子が頭を失う前も、失ってからも、僕はよくいじめた。頭を失う前には、彼の人の好さに甘えて、失ってからは、それでも平気で登校してくる厚かましさを理由にして。僕は、彼が決して人を殴ったりしないことを知っていていじめたし、彼が頭を失っても死なないことに苛立っていじめた」
指はじっとしていた。指に僕の話が聞こえているのかどうかは分からない。指には耳もない。
「彼に会ったというのは、もちろん夢のなかの話だよ。彼にはまだ頭があって、僕の左腕を片手に持って立っていた。それではじめて僕は、自分の左腕がなくなっていることに気づいたのさ。彼は僕の腕の手首辺りを両手で握り直し、それから野球のバットのようにスイングして、木の上から落ちてきたドングリを打った。そして陽気にこう言ったんだ。『人を笑わせるのは素敵なことなんだろう?』。それから、またドングリを打って『そう言ったよね?』と言った。それで、僕は思い出した。放課後の教室で、頭を失ったばかりの彼の首の上に、ネズミの回し車を置いたことを。それを見てくすくす笑い始めた級友たちに向かって僕は、誰か、ネズミを!と言った。それで、みんなは大笑いになって、彼一人が泣いた。彼が泣くと、首の断面に空いている穴から、小さなビーズみたいな涙が勢いのない噴水のようにこぼれ出す。その脇で手を洗ってみせる子もいた。彼の涙が止まり、陰湿な笑いの常で、みんな飽き飽きした顔で立ち去ると、僕は彼に言い訳がましく声をかけたんだ。人を笑わせるのは素敵なことだろう?って」

指がどんなふうに自分を責めるのか、僕は知っていた。十三年間も一緒に暮らしたのだ。彼女はきっとこんなふうに言っただろう。そんなやつは、大嫌い。

「それで、僕は彼に謝った。君をいじめたことは、ずっと後悔している。後悔することで、僕は長いあいだ罰を受けてきたし、これからも受け続けるだろう。それでも足りないのかい? すると彼は吹き出して『きみを笑わせようと思ったんだよ! 馬鹿だな、君は』と言った」

指がもそもそ動いて、話の先をうながしているみたいだった。しかし、話の続きはあとわずかだ。
「次に彼は、こんなことを言った。『笑うって、どうやるの? 君らがあんまり笑ったせいで、僕は笑い方が分からなくなったよ。君は何でいま泣いているの? 君の涙って、壊れた雨樋から漏れる水みたいだ』。僕は怖くなって一散に逃げた。自分が泣いていることに、僕は気づいていなかった。いつから泣いていたんだろう。走りながら右手を上着のポケットに入れて、君を確かめた。君を強く握りしめすぎないように、努力が必要だったよ。僕は、震えていたからね」

指は動くのをやめた。それから、僕の話したことなど全部忘れてしまったみたいに、おはよう、おはよう、と言った。彼女の二度の「おはよう、おはよう」のあいだに、彼女を握る僕の右手の指は三本になっていた。

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