そこに知覚されるものが虚偽であると分かるとき、そこに見えてくるもの
「ここ」がすでにわが家なのだということ
私たちは何のためにコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのか?
というなら、もちろん、「神のもとに帰る」「わが家に帰る」ことを目的としてコースを学んでいるといえます。
そんな私たちが知っておくべきことは、ここではないどこかにわが家(天国/神の国)があるのではないということです。
本当は、「ここ」がわが家(天国/神の国)なのだということです。
もちろん、この世界(宇宙空間/時空間)は幻想(虚偽)であって、この世界がわが家(天国/神の国)なのではありません。
この世界は、知覚が作り出した幻想世界です。
投影が知覚を作り出しているだけです。
つまり、この世界は、無、です。
でも、この世界を看過して見るようになっていくならば、ここがすでにわが家(天国/神の国)だったと思い出されていくことになるということです。
そして、そのために私たちはコースを学び、実践しているのだということを覚えておきましょう。
それは距離のないわが家への帰還の旅である
上記で述べた通り、私たちはこの世界を使って、「わが家(天国/神の国)から離れた」という幻想(夢)の経験をし続けているといえましょう。
そんな夢の中に没入してしまっているので、当然、私たちはみんな、”さまよえる異邦人”(T-20.Ⅲ.7:5 )となってしまっています。
自覚しているしていないにかぎらず、孤独感、疎外感といったものは誰の中にもあるということです。
それゆえに、私たちは物理的な居場所や社会的な居場所などといった仮の自分の居場所を確保することに一生懸命になっていると言うことができます。
でも、私たちが学ばなければならないのは、自分の居場所(自分が帰る場所)を探している私たちは、ただ単に自分は誰なのか?を見失っているだけなのだということです。
言い換えるなら、
自分とは誰であるか?
それが思い出されてくるならば、ここが天国だったと思い出されていくことになります。
「ここ」が自分の居る場所であり、「ここ」がわが家だったと分かってくるということです。
つまるところ、私たちはこの世界の中で何をしているのか?
というなら、「ここは天国ではない」という妄想をし続けているだけで、それを私たちはただ信じ続けているだけと言うことができます。
そして、妄想で作り出したこの宇宙物理空間をその証拠にしているということです。
それは、ただ単に妄想を現実だと信じていること、それだけが問題なのだいうことです。
天国ではない妄想の世界を、幻覚を、自分で作り出して、自分で信じているだけなのだということを思い出すならば、もはやそこには深刻さはありません。
それは単なる妄想(虚偽)でしかなったということが認識されるならば、私たちはこの幻想世界(幻覚)を見ながらも、それらを平安と共に見ることができるわけです。
そして、それが「赦し」「奇跡」と呼ばれているものだといえます。
そして、そこから見えている知覚を「聖霊のヴィジョン」「赦しのまなざし」「愛のまなざし」などと、コースでは呼んでいるということです。
そこに見えているものがすべて偽りだと、つまり、すべてが嘘だったと分かるならば、そこにはいったい何がみえてくるのでしょう?
そこに在るものとはいったい何なのでしょう?
コース学習者である私たちが目指しているのは、ソレを思い出すことなのだと言うことができます。
ソレは、いまここに臨在しています。
ソレを、「愛」とか、「神の平安」と呼んだりします。
私たちが帰っていく場所は、どこかにあるのではありません。
この歩みは、ここじゃないどこかにあるわが家へと向かうというものではないということです。
それは、距離のない旅だといえましょう。
それは、ここにただ在る、ということをただ思い出すだけです。
そして、ソレは、「いま」という「ここ」にあります。
本当は、すでに天国の一体性(ワンネス)と共に在るのです。
そうでありながら、そうではない幻覚(夢/幻想)を見ていて、そして信じているだけなのです。
コースはそういうことを私たちに教えてくれているわけです。
でも私たちはこの今も、目の前に見えている肉眼の幻想世界を現実だと信じています。
それらは幻覚であるにもかかわらず、私たちはそれらを重要である、意味がある、価値がある、と本気で思っています。
自分が誰なのか?どこにいるのか?何をしているのか?
私たちはその真実をすっかり忘れているわけです。
だからこそ、私たちは自分たちについての真実を思い出していかなければならないのであり、そのために私たちはコースを学んでいるのだということです。