すべてが愛だと知覚されていないなら、そのような知覚になるまで訓練するしかありません
なぜ私たちは学びと訓練が求められているのか?
すべては愛です。
すべては完璧です。
あなたもそのままで完璧なのです。
そのままですべてが愛の現れでしかないのです。
いまここにリラックスしてゆだねていればいいのです。
だいじょうぶ、、、大丈夫、、、
というようなことが、ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティで語られている内容です。
そして、それは確かに真理を述べているといえます。
ただし、ここで私たちは知っておかなければならないことがあります。
真理はそうであるとしても、そのように知覚されていないならば、そのように知覚されるようになるまで、私たちはしなければならないことがあるということです。
たとえ真理を垣間見たことがあったとしても、です。
純粋な非二元(ノンデュアリティ)の霊性の道を歩む者であるならば、真理を垣間見ただけで、そこで終結するものではないということです。
というのも、
たとえ真理を知っていても、自分の内側に正直になるならば、真理で述べられているようにはまったく知覚もしていなければ、むしろ、真理とは真逆の知覚の仕方をしていることは明らかだからです。
そうであるとしたなら、あなたはまだ目覚めてなどいないし、癒されていないということであり、そのあなたは癒される必要がありますし、あなたは自分自身を癒していく必要があるということです。
癒すとは、つまり、内側にあるものを訂正していくということです。
そうであるなら、どのようにして癒していくのか?についても学ばなければなりませんし、それを修得しなければならないということです。
そう、その道を示してくれているのが、コース(奇跡のコース/奇跡講座)であるといえましょう。
私たちがわきまえておかなければならないのは、たとえ真理(非二元)について分かったつもりでいたとしても、自分の内側に真理ではない考え(想念)があるならば、学ばなければならなりませんし、訓練していかなければならないということです。
特に、本気でこの世界の夢から目覚めようと思っているのなら、なおさらのことです。
すべてが愛であるとして見えていないならば、すべてが愛であるとして知覚されるようになるまで学んでいくほかありませんし、訓練していくほかないのです。
コースの言葉の表現でいうならば、
見ているものすべてが、愛の表現か?愛を求める呼びかけか?というふうに知覚されていないならば、私たちは聖霊から学ばなければならないということです。
その努力が全く必要なくなるまで、つまり、それが完全なものになるまで、当たり前の自然なものとなるまで、それは修得(マスター)される必要があるわけです。
そう、この世界の夢から完全に目覚めていくつもりであるのならば、コースはそのためのスピリチュアリティ(霊性の道)であるということを肝に銘じておきましょう。
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