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臨在する愛に触れる経験をしていくとき、その実践は妥協ないものになっていくでしょう
形態から内容へ ~肉眼から心眼へ
この世界にはいろいろな問題があるかのようにみえます。
でも、真の問題はたった一つ、です。
真の原因は、私たちの「心」にあるのであって、この外側の世界の形態(人や状況や事象)に問題があるのではありません。
外側の世界はたんに「心」が投影した影であり、もっといえば「無」です。
だからといって、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践は、むやみに外側の世界を否定していくわけでもありません。
コースの実践において私たちがしていくのは、外側の世界を「赦し」のきっかけとして使っていくということです。
普段、私たちはこの世界が現実だと信じており、いかにこの世界の中でより良く生きていくか?ということに重点を置いています。
そんなふうに外側の世界の形態を重要視するならば、それらをすでに実在化させてしまっているがゆえに、この外側の世界の中に問題があるかのように見てしまうことになります。
さらに、そう見てしまうことによって、肉眼で見ている形態にますます知覚が囚われていくことになるのです。
そして、すでにそうなってしまっているのが、この世界にいる私たちです。
真の自由も、真の幸せもないところに、それらを探している状態になっているということです。
ですから、私たちに求められているのは、心に戻っていくことであり、真の原因を見つけ出して訂正していくことなのだということです。
そのために私たちは知覚しているものに対して「これは心の投影である」と気づいていく訓練をしていかなければならないわけです。
投影に気づいていくことによって、私たちは「心」に戻ることができるようになっていくだけでなく、外側の世界はたんなる影であることを認識するようになっていきます。
つまり、重要視していくものが外側の形態にではなく、心の内側(内容)へとその焦点が向かっていくようになるということです。
ようするに、
外側の形態に対して自分の内側がどう反応しているか?
ということに焦点が向かっていくことによって、心を自覚した状態(マインドフルネス)になっていくということです。
そうなるにしたがって、自分の内側(心/ハート)の反応に注意深くなっていくだけでなく、自分はどちらの思考体系選択しているか?が識別できるようになっていきます。
自我の分離の思考体系か?聖霊の赦しの思考体系か?
つまり、コースの実践において私たちが重要視していくべきものは、その選択なのだということを覚えておきましょう。
それは、
どちらを教師としているか?
どちらの教師と共に見ているか?
ということであり、
どちらの目的で見るのか?
自我の目的で見るのか?聖霊の目的で見るのか?
という選択が重要項目になるということです。
それに加えてさらに、私たちが学ばなければならないのは、
自我の思考体系を選択したままなら、その代償は、恐れ、苦痛、苦しみ、裁き、攻撃、争い、破壊、死といったものであり、
もう一方の聖霊の思考体系を選び直すなら、その報奨は、平安、喜び、愛、幸せといったものだということです。
コースを通して、私たちはその識別法を学んでいると言うことができます。
つまりは、何かに動揺したとき、それは、自我の思考体系を選んでいる、ということであり、それに気づいたなら、自我の思考体系の代わりに聖霊(イエス)の思考体系に選び直すということをしていくということです。
それが、訂正、であり、赦し、です。
その実践を通して心を訓練していくにしたがって、「外側の世界(形態)はけっして重要なのではなく、それらはたんなる影にしかすぎない」というふうことが体験的に理解されていくようになっていきます。
もっとその体験的学びを重ねていくならば、「自分は、ただ影(無)に対して動揺しているだけ」ということが深いレベルで理解されていくことになります。
そのように知覚されていくとき、形態は(いかなる形態であろうと)すべて同じ一つの幻想として捉えられるようになっていきます。
そのようにして、私たちのフォーカスは(外側の)形態から(内側の)内容のほうにシフトしていくということです。
もちろん同時に、「自分は肉体ではなく、自分は心である」というふうにアイデンティティーのシフトも起きていきます。
そして、その真のアイデンティティーが自覚されていけばいくほど、この世界(形態)をコースを実践していくための「教室」というふうに知覚するようになっていきます。
すべての兄弟が、この人生に起きているすべてが、赦しのレッスンのための教材(教師)となっていきます。
そうなっていくとき、ひと、もの、出来事といったあらゆるところに聖霊という教師が臨在しているのを知覚するようになるでしょう。
それが、「聖霊のヴィジョン」「キリストのヴィジョン」と呼ばれているものです。
それは、愛の存在の象徴(シンボル)なわけですが、その臨在する愛に触れていく経験をしていくならば、その実践はますます妥協のないものになっていくでしょう。
それは、実践、訓練によって成し遂げられていくものです。
私たちは、そうなっていくためにコースの実践を通して、心を訓練しているのだということを憶えておきましょう。