スピリチュアル探究のプロセスにおけるさまざまな霊的体験について
一瞥体験、啓示体験について
スピリチュアルな探究のプロセスにおいては、誰もがそれぞれにさまざまな霊的な体験をします。
一瞥体験や啓示体験といった体験をする人もいれば、しない人もいます。
そこで私たちが知っておかなければならないのは、そのようなすべての霊的体験は一過性なもの、つまり一時的なものだということです。
巷のスピリチュアルでは、「こんな体験をしました、あんな体験をしました、、、」というふうに過去の霊的体験をずっと持ち歩いているスピリチュアリストもおられたりします。
でも、非二元の霊性の道を歩む者であるならば、それがどのような体験であったとしてもすべてストーリーの中の体験でしかないということをわきまえておく必要があるといえます。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践のプロセスにおいても、もちろん、一瞥体験や啓示体験といった霊的体験をすることがあります。
ですが、上記にも述べたように、コースにおいては、そのような「霊的体験」というものは学びのプロセスの一つの体験でしかなく、そういったものがコースの学びの進み具合を計るものではないということです。
体験如何にかかわらず、体験は体験でしかないということです。
そもそもそれを体験している者とはいったい誰なのでしょう。
私たちがファーカスすべきは、体験そのものよりも、体験による理解と気づきなのだということができましょう。
コースの学びが進んでいる学習者ならば、自分がしてきた体験云々について重要視したりなどしません。
それがいくら素晴らしい霊的な体験であろうとも、あくまでも私たちが目指しているゴールは完全なる「悟りの完成」なのだということです。
それは、真のアイデンティティーの完全なる自覚であり、真の知覚の完全なる修得であり、それがコースの目的とするものなのだということを忘れないようにしましょう。
コースでは、それを実相世界と呼んでいます。
いわゆる、一瞥体験、啓示体験、神秘体験、覚醒体験などといった一過性の体験についてですが、コースではそれをどのように捉えるのか?について、以下のように述べています。
コースの観点から見るならば、一瞥体験、啓示体験などどといったものは一つの道標にしかすぎないものとして捉えるということです。
(参考記事:JACIMサイト別館ワンポイント解説「奇跡と啓示」)
たとえ私たちが向かうべく到達地点が体験によって明かされたとしても、それでゴールに到達したということではないということです。
むしろ、そういった霊的体験を、自我を存続させるための隠れ蓑にしてしまわないように警戒すべきだといえるでしょう。
そこに到達するには、私たちは手段が必要なのであり、そして、その手段こそが「赦し」なのだということです。
私たちは、コースを通して、その「赦し」について学び、その「赦し」を修得して、体現していくことを目的としているのだということを覚えておきましょう。
霊的体験による学びの支障について
一瞥体験、啓示体験といった霊的な体験が、ときに、むしろコースの学びにおいてはかえって障害になり得たりするということも知っておくといいでしょう。
というのも、コースの学びのプロセスにおいて素晴らしい霊的な体験をしたりすると、それによって自我の特別性を強化する誘惑に惑わされるということはよくあるからです。
かくいう私も、それによって勘違いを起こして、コース学習の歩みを外れて、まわり道をしたという経験があります。
私の場合の例で言えば、悟りの体験、神との合一体験といった体験をしたことが幾度かあるわけですが、それが「自分はもう分かっている」という傲慢さを生じさせてしまって、結局は自分の都合のいいようにコースを歪曲して解釈してしまったのでした。
それは、今だからこそ分かるのですが、「自分はもう知っている、分かっている」という思い込みによって、コースの学びを深めていくことがストップしてしまったのです。
コースはこういうもので、赦しはこれこれこういうふうにやればいい、というふうに、自分が体験してきた霊的体験に伴う自分なりの考えの枠にコースの教えをはめ込んで、コースを都合のいいように矮小化してしまったということです。
いわゆる、自分がコースを学んでいくのではなく、自分の考える枠組みの中にコースの教えを入れ込んでいくことをしてしまっていたということです。
その当時は、コースを分かったつもりになって、自分なりの赦しをしていたわけですが、今思えば、まったくとんちんかんなことをしていたし、「破壊するための赦し」をしていただけだったと分かります。
いわば、「赦し」というものを手法、テクニックみたいに捉えていたといいましょうか、それによって、ただ自我を強化することをしていただけだった、、、と言うことができます。
そのような過ちは私だけに限ったことではなく、コースを学ぶ者たち全般に起こることだといえましょう。
それは、私たちコース学習者やコース・ティーチャーの誰もがやってしまいがちなことだということです。
要は、ちょっとした霊的な体験をしたからといって、コースを分かったつもりになってしまわないように、謙虚な気持ちで学んでいくことはとても大事だといえましょう。
練習、練習、また練習
コースの観点からいえば、いくら目覚めのような覚醒体験をしたとしても、コースの思考体系が完全に修得されるまではその学びと訓練が終わることはないということです。
つまり、このコースがゴールとしているものは、一瞥体験、啓示体験といったものではないし、それをゴールとはしてはいないということです。
コースの学びのプロセスにおいては、そういう体験をするかもしれないし、しないかもしれない、ただそれだけのことです。
このコースは、体験(結果)というストーリーを超えていく霊性の道であるということを忘れてはなりません。
さまざまな内的(霊的)体験はしていくでしょうが、体験も体験している者も、すべてがストーリーでしかないということです。
つまり、本当は何も起きていない、のです。
それが、私たちがコースを通して学んでいるものだといえます。
一瞥体験、啓示体験といったものを体験したとしても、この(肉眼の)世界を知覚している間は、この世界を教室として、レッスンの場としてその学びと実践をしていくことには何ら変わりないということです。
ワプニック博士もこのように云っています。
私たちは、日々の赦しの訓練をしていくしかないのだということです。
コースの学びが深まれば深まるほど、その言葉に深く納得させられる次第です。
参考記事:JACIMサイト「V#11: 薪を割り、水を汲む」
参考記事:JACIMサイト別館ワンポイント解説「奇跡と啓示」
参考記事: JACIMサイト本館「奇跡講座の学び方」の中の「啓示について」
参考記事:JACIMサイト本館Q&A 【質問】No.103 「啓示」について