「赦し」は真のアイデンティティーを思い出していくためのものである
自分は心(の決断の主体)である、ということを自覚していくための方法
私たちは自分を人間だと信じていて、本当は自分が何者なのか?自分は誰なのか?についてすっかり忘れた状態になっています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、その忘れてしまった自分の本性、つまり、真のアイデンティティーを思い出していくことを目的としていると言うことができます。
ですから、その実践では、自分は心(の決断の主体)である、ということを自覚していく練習をしていくわけです。
そのための手段を、コースでは「赦し」と呼んでいます。
ちなみに、コースでいうところの「心」とは、個人的な心ではなく、この世界(時空)の夢を作り出した一なる「心」のことを言います。
(個人的な心は、コースでは「頭脳」と呼んでいます。)
そして、その一なる「心」こそが私たちが思い出していくべき真のアイデンティティーなのだということです。
そのために、コース学習者の私たちは「赦し」という実践を通して、「心」に戻ることを訓練していきます。
ただし、実際のところ、実践してみると分かることですが、それはそう容易いことではないということを実感するでしょう。
それは、内側では常に、「心(の決断の主体)」に戻らないように、その精神力動が働いているのを自覚/認識するようになるということです。
というのも、「心」の中は今や「殺すか殺されるか」の戦場であり、恐れの棲み処となっているので、なかなか「心」に戻ろうとはしないわけです。
覚えておかなければならないのは、そもそもがその「心」から逃れるために、私たちはこの世界(時間と空間の世界)を作り出したのであり、そして肉体である個人の自分として存在しているのだということです。
では、どのようにして心に戻っていけばいいのか?
そういうことについて学んでいくのが、コース学習者の私たちが学んでいくものだといえます。
言い換えるならば、コースの学びが深まっていくにつれて、私たちは「心に戻る」という実践ができるようになっていきます。
さらには、心の中の戦場を通り抜けて、”戦場を超えたところ”(T-23.Ⅳ)の視座を思い出していくようになります。
それによって、神の平安の反映の「平安」「静けさ」「静けき中心」といったものを体験的に理解していくことになります。
そう、戦場を超えたところにある「平安」「静けさ」「静けき中心」というものが自分にとって当たり前になるまで、その訓練はなされなければならないということです。
その実践を通して学びが深まっていくにしたがって、
自分とは何者なのか?
その自分は何をしているのか?
私たちはその真実を自覚/認識するようになります。
「赦し」の実践とはそのようなものです。
そして、それがコース学習者である私たちがしていく訓練だといえます。
それは、地道な学びと訓練によってしか修得(マスター)されていくことはないということを肝に銘じておきましょう。
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