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自我から自由になることは、この世界から自由になるということ


自分を赦す

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を実践していけばいくほど、自我にしがみついていたい自分を自覚するようになります。

いかに自我を手放したくないか、
そして、
いかに自我の思考体系を握りしめていたいか、

そのことがはっきりと自覚/認識されていくということです。

そして私たちはその自分を咎め責めたくなるのです。

ですが、コースの実践で私たちがしていくのは、その自分(自我)を咎めずに見るという訓練をしていくということです。

つまり、自分(自我)を赦すことをしていくわけです。

それが、どんな自分(自我)であろうと赦していくということです。

そうしていくとき、他者の中に見える自我も、同じように赦していくことができるようになります。

それが、「自我を咎めずに見る、裁かずに見る」ということであり、それが、平安(の教師)と共に見るということなのだということです。

というのも、私たちはみんな同じ一つの自我であるからです。

もっといえば、その自我こそが無である(実在しない)からです。

「赦し」とは、そういうものだといえましょう。


それでもあなたは自我を手放したくない

この世界にいる私たちは、恐れ、裁き、攻撃をやめることができません。

それが、私たちが自我となってしまっていることの証拠なわけですが、たとえそれを自覚したとしても、それでも私たちは自我を手放そうとはしないのです。

自我を、自我の思考体系を、握りしめていたい自分を自覚することができます。

自我を手放そうなんて、まるで思っていません。

コースが教えていることを理解していくほどに、ますますそのことが自覚されていくといえます。

それが意味するのは、神のひとり子としての真の自己(Self)よりも、自我としての自分(self)のほうが安全だと思っている、ということです。

それは、天国よりも、この世界の夢のほうがマシだ、安全だ、と信じているということです。

本当は、私たちは「自分は神の子であり、神との一体性(ワンネス)である」ということを今この瞬間に知る(悟る)こともできるのに、私たちはそれを拒絶し、そうでないほうを常に選び続けているのです。

ようするに、私たちは真理(ワンネス)を恐れているということです。

天国を、幸せを、神の愛を、とても恐れているということです。

なんという狂気でしょう!

でも、コースのイエスは私たちがそうであることをすでに重々分かってくれています。

ですから、「まずその狂気さを見なさい!認識しなさい!」と、コースのイエスは私たちにやさしく語りかけてくれているのです。

真理に対して防衛し続けている自分自身を自覚しなさい、と。

そうしていることがいかに自分自身を傷つけ、自分自身に苦痛、苦しみをもたらすことになるのか、ということが認識できるように、コースのイエスは私たちにコースを通して導いてくれているといえます。

そう、私たちはそのことを認識しないかぎり、自我の狂気の思考体系から自由になることはけっしてないといえるでしょう。

でも逆に、そのことを認識していくならば、「もう私はそれを望まない」というふうにますますなっていくにちがいありません。


「あなたの心に戻って、今、イエスや聖霊と一緒に、あなたの自我を見て、あなたがそれを選んだことに気づいていくということです。たとえその瞬間に、その瞬間でさえ、あなたは自我を手放したくないかもしれませんが、あなたは少なくともあなたが何をしているのか知るでしょう。そして、このコースの学習者として、自分の自我と特別性をひねくれて選択し続けるという理由から、自分がいかに狂気であるかを知ります。しかし、少なくとも今、あなたはそれをやっていることを知っているということです。そしてそれは、あなたがそれのために他の誰かを責めることができないことを意味します。」

ー『決断のためのルール ワークショップ』のワプニック博士の講話よりー


自我は実在しない、ならばそれは無である

自分(自我)が何をしているのか?が理解されていくようになるならば、自分以外の他者も同じだということが理解されていきます。

自分も他者も同じ(自我)であることが理解されていくとともに、外側に見えている他者を自分自身あるいは自分の一部として捉えられるようになっていくということです。

それが、コースで「共通の利害」とか「利害の一致」というふうな言い方で呼んでいるものです。

神の教師として生きはじめるとき、そのようになっていきます。

要は、すべてが自分自身の「投影」であることに気づけるようになっていくということです。

知覚するものすべてが「投影」であると悟るとき、もはや、そこに他者などいない、世界も無いということを悟っていくことになります。

外側に世界はない、神のひとり子がただ分離の夢を見ているだけであるということ、そして自分がその分離の夢を見ている者(主体)であることが自覚されていくのです。

その自分は世界の夢(分離の夢)を手放そうとはしないことも自覚されていきます。

この世界を手放す(自由にする)ことが自分自身を自由するということも忘れて、頑なに、外側の世界をコントロールしようとしているその自分(自我)を咎めることなく見ていくことです。

自我となってしまっているその自分にただ気づいていくということです。

それが、私たちがしていくことであり、それが「赦し」です。

つまりそれは、自我を手放しなさいとか、自我を克服しなさいとか、自我を修正しなさい、という訓練なのではないということです。

自我をあるがままに見ていくだけなのです。

それが、無(虚偽)であると理解しているところから見るということです。

この世界で何が起きようとも、自分の身に何が起きようとも、自分の愛する人に何が起きようとも、それらすべてが虚偽であると見えている視点から眺める練習をしていくということです。

そう、それこそが、私たちが自我から自由になっていくための方法であり、この世界から自由になっていくための方法なのだということです。


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