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ノンデュアリティのスピリチュアリティと『奇跡のコース』のちがいについて

ノンデュアリティ・スピーカーさんたちが語る非二元の教えと、コース(奇跡のコース/奇跡講座)が語っている教えは、本来どちらも同じ非二元の教えであるわけですが、

実際に、コースが教えていることを真に理解するようになるなら、それらは似て非なるものであるということが分かってくるといえるでしょう。

なにせ、コースの教えがとても難解であるがゆえに、その「ちがい」というものが理解されにくい面があるのは事実です。

もちろん、どちらも非二元の教えとして共有できる部分もあります。

ですが、その「ちがい」をはっきりと明瞭にしておくことは、コースが教えていることを真に理解していく上ではとても重要なことなので、今回はそのことについて書いてみようと思います。


WhatのスピリチュアリティとHowのスピリチュアリティ

巷において「ノンデュアリティ」とか「悟り」と呼ばれている非二元のスピリチュアリティと、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の教えとのちがいについてのべるとしたなら、たしかに、そのどちらも非二元(一元論)のスピリチュアリティということでいえばちがいはありません。

ただ、教えているその内容には大きなちがいがあると言わざるを得ません。

その特徴的なちがいは?というなら、

Whatのスピリチュアリティ(霊性の道)とHowのスピリチュアリティ(霊性の道)のちがいだと言うことができるでしょう。

ノンデュアリティや悟りのスピーカーさんたちが語っている内容は?

というなら、それは「非二元とは何(What)か?」ということについて語っていると言うことができます。

いうなれば、その内容は、いにしえより何世紀にも渡って聖者やマスターたちによって語られてきたものとさほど変わりないものといえます。

一方、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)で語られている内容は?

というなら、それは「どのように(How)非二元を体現するのか?」ということについてその手段について語られていると言うことができます。

コースは、真理について語られているものではないということです。

コースは、非二元について語られているものでもありません。

コースは、愛について語られているものでもありません。

むしろ、コースでは、そういうものは「教えることのできる範囲を超えている」と述べています。


”このコースは愛の意味を教えることを目指しはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。”(T-In.1:6)

奇跡講座/中央アート出版社


つまり、コースは、「非二元とは何か(What)」について探究していくような霊性の道ではなくて、「どのようにして非二元に至るのか(How)」について学んでいく霊性の道であると言うことができます。

それは、どちらが素晴らしいとか、優れているということではありません。

それは、WhatHow のちがいなのだということです。

ただ言えることは、真理、非二元、悟り、についていくら学んだとしても、実際のところ、ほとんど私たちの助けにはならないということです。

真理、非二元、悟りとは何か(What)?について、いくら学んだとしても、この世界にいる私たちにとって、それはけっして理解出来ないものであるということを知っておくと良いでしょう。

つまり、そもそもがそれは知的には理解し得ないものであるということです。


”普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか必要である。”(C-In.2:5)

奇跡講座/中央アート出版社


コースは、どのようにしたらそれを体現できるのか?その How がしっかり示してある霊性の道であるといえます。

しかも、その体験は可能なのだということです。

そういう意味で、コースはより実践的、より実用的なスピリチュアリティ(霊性の道)であると言うことができます。

真理、非二元、悟りといったものについて学ぶことが無駄だとは言いません。

ただし、知的欲求を満たすためにそれらを学んでいるとしたなら、何の意味もないということです。

真理、非二元、悟りを体現したいのであるならば、ここにコースという霊性の道を示した学びと実践のカリキュラムは用意されているわけです。

もし、あなたが知的に非二元を学んでいくことから、非二元を体現(マスター)していきたいという意欲に変わっていったとき、それはコースを学ぶ準備が整ったというふうに捉えていいでしょう。


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