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はじめからコースの実践ができるわけではなく、それには学びと訓練を要するということ
自我に執着している自分をどうしたらいい?
私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において主眼とするのは、
自我という分離(裁き)の教師と共に見るか?
もしくは、
イエス、聖霊という赦し(平安)の教師と共に見るか?
そのどちらの教師と共に見るか?
そこに焦点を当てていくということです。
そして、赦し(平安)の教師、つまり、イエス/聖霊を教師することが、私たちが実践において求められていることなのだということです。
ただし、私たちがわきまえておかなければならないのは、いざ実践してみれば分かることですが、イエス/聖霊を教師とするという実践がはじめからそう簡単にできるものではないということです。
実践ができるようになるには地道な学びと訓練を要するということを知っておきましょう。
というのも、落ち込んでいたい、恐れていたい、罪人でいたい、処罰されたい、脅かされる存在でいたい、苦痛、苦しみを感じ続けていたい、、、というふうに自我を教師とすることをやめることができない、手放すことができないのを自覚することになるからです。
いわゆる、自我と同一化してしまって、自我になってしまっている自分を自覚することになるわけです。
そこで覚えておかなければならないのは、その自分(自我)を裁くことなく咎めずに見ていくことが、コースの実践で私たちに求められているのだということです。
それが、聖霊(平安の教師)と共に見るということなわけです。
ただし、何度も言いますが、その実践はそれ相当の学びと訓練を要するということです。
コースのイエスは、私たちがそれができないことを知っています。
その上で、コースのイエスは私たちをやさしく導いてくれているということを知っておきましょう。
私たちはできないところから、地道に一歩一歩、できるようになるために学びと訓練を重ねていくほかないということです。
自我を手放そうとはせずに自我を握りしめていようとするその自分を、自我に執着していようとするその自分を、咎めずに見るという訓練をしていくということです。
それが、イエス/聖霊と共に(咎めずに)見る、という実践であるわけです。
見るとは、つまり、自覚していく、認識していくということです。
つまりは、「自分は自我の狂った思考体系と同一化している、自我になっている」ことを自覚/認識していくということです。
それが、重要なのです。
ようするに、コースの実践で私たちは何をしていくのか?
というなら、自我を手放していく訓練というよりも、自我を手放したくない自分を咎めずに見て(気づいて、認めて)いく訓練をしていくということです。
そうしていくことによって、自我に気づけるようになり、自我に対処することができるようになっていき、自我に振り回されることがなくなっていきます。
それだけでなく、自我(自分自身)との闘いが終わっていくと共に、あるがままに見ていくことができるようになっていきます。
そのようにして、私たちは自我と同一化した状態から少しづつ脱却していき、自我から自由になっていくということを知っておきましょう。