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なぜ「愛のコース」とは呼ばないで、「奇跡のコース」と呼ぶのか?

コースが「奇跡のコース」と呼ばれる所以

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)は、一元論(非二元)の霊性の道であるということ言うまでもありません。

にもかかわらず、引き寄せ、願望実現、自己啓発といったようなものと混同してコースが学ばれているケースもあったりします。

いわゆる、人生をより良くすることを目的にしてコースが学ばれていたりするわけです。

もしそのような目的でコースが学ばれているとしたなら、それはコースを学んでいるとはいえませんし、コースを曲解していると言うことができます。

コースの教えの曲解については、それだけではありません。

コースが一元論(非二元)のスピリチュアリティであることを認識してはいるものの、コースの教えを微妙に歪曲しているケースもよくあります。

そのようにコースの教えが歪曲化、矮小化されてしまうことは、特に珍しいことではないということです。

コースの学びの浅い段階の学習者やコースをよく理解していない学習者においては、普通にあることだといえましょう。

その典型的な例の一つとして挙げられるのが、コースを神、愛、ワンネス、真理、平安、喜びといったものにフォーカスしていく道だと捉えてコースを学び、そして実践しているケースです。

それがいけないというわけではありませんが、コースが教えていることをしっかり理解していくならば、コースはそのような道ではないということが分かってくるはずです。

ワプニック博士もこう云います。

「これは愛のコース(道)ではありません。これは愛を阻む障壁を見つけ出していくコース(道)なのです。」と。


このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。・・・ しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。(T-In.1:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社


コースは、愛、平安、喜びにフォーカスしていくようなものではないということです。

このコースは、まったくその真逆で、自我、闇、幻想といった、つまり、愛や平安を妨げるもの、遮るもの、障壁となるものにフォーカスしていく霊性の道なのだということを覚えておきましょう。

そもそもが、この世界にいる私たちには(本当の)愛、(本当の)平安、(本当の)喜びといったものが何なのか?が分からないのです。

コースでは、そうではないもの(自我、闇、幻想)を見つけ出し、それらを取り消していくこと、訂正していくことを目指しているということです。

それゆえ、コースは、取り消し(Undoing)の道、あるいは、訂正の道、と呼ばれるわけです。


奇跡とは訂正である。(W-pII.13.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)が、

ア・コース・イン・LOVE(愛のコース)でもなく、
ア・コース・イン・GOD(神のコース)でもなく、
ア・コース・イン・TRUTH(真理のコース)でもなく、

『ア・コース・イン・MIRACLES(奇跡のコース/奇跡講座)』

と呼ばれる所以がそういうことなのだと、ワプニック博士は云います。

このコースは、奇跡という手法によって、つまり、訂正取り消し)によってこの世界の夢から目覚めていく道なのだということです。

そう、コースでは愛を阻んでいる障壁を見つけ出していくことが私たちに求められているということです。


あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。(T-16.IV.6:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースは愛の障壁を見つけ出していく道であり、その障壁が取り消されていくとき、すでにそこに在り続ける愛の現存が知覚されるようになります。

コース学習者の私たちがしっかり理解しておかなければならないのは、コースは愛を探し求めていくような実践をしていく道ではないということです。

それがコースは他のスピリチュアリティやノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティとはまったく異なるところであり、それこそがまさにコースならではの特徴だと言うことができるでしょう。


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